2011年12月20日火曜日

岡本太郎「美しく怒れ」を読んだ

以下、みじかい所感です。


・彼が本書の中で「怒る」のは、一個人や歴史の一時点にではなく、組織であり、社会の潮流に対してである。そのことが、生きてエネルギーを発し、生きて歴史を形成するものとしての人間存在についての重要な示唆を含んでいるように思える。

・「ふくらみ」という言葉を多用している。それも、形而下的な、形の上での「膨らみ」ではなく、形而上的な意味を語ろうとする文脈で用いているのが特徴的であった。それは肉体という器を飛び出していく自分自身そのものの「ふくらみ」である。

・強く感じられたのは、彼の語る幅である。動物、自然への畏敬や絵を描くということに対する観念や、はたまた政治的な問題に対しても、意見を持ち、提案し、怒っている。我々皆が自然に生まれた人間なのだから、自然に対して、あるいは人間が作ったものに対してすべからく意見できるのは当然のことだと実感した。

・何に対しても彼の怒りには一本の筋が通っている。そのことがここまで彼の文書を魅力の深いものにしている。と同時に、一本の筋が様々の分野に光を反射して、幾つもの彩りをもって表われている。語ることは面白いと感じた。

2011年12月19日月曜日

髪を切る前と切った後

昨日と今日はとても楽しかった。

友達が近くにいないから、人との交流を全力で楽しむようになった。

2011年12月12日月曜日

日曜日の夜!

頭が良くなったら、周りの人の困ってることを助けたい。
口を出すだけじゃなくて、時には行動も起こして。

本の中の人や現実の人やCDの中の人にかつて助けられたみたいに、俺も誰かにそうしたい。

あ、そういう風に考えたらいいんや
へぇ、そんな行動をすればいいんや

っていうことを、どんどん共有していきたいね。

でも、そのためには頭が良くなるだけではいけない。
それと同時に、心を優しくする必要がある。

自分が時間をかけて考えたり気付いたり学んだことを共有するのには、強い意志と心の優しさが要るからである。
自分が考えついたことを人に全部教えることに「勿体ない」と思う浅ましい気持ちがどうしても生まれる。
そのことを認め、しかしその上を踏み越えて誰かに共有しないと、心が籠らないので伝わらない。正しく伝わらない。

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「受け手の自由」というものを俺は積極的に尊重しない。
どんな思想や芸術も意味ありきであるべきだと思う。

意味をたらふくぶち込んであれば、重たくて感じにくくても、逆に散文的であろうとも伝わる。
そして、そういう誰かの考えを自分に伝えてやりたいと思う。

スカした野郎の空砲に踊らされるよりも、血肉を込めた弾丸に潔く撃ち抜かれる方がよっぽど気分がいい。
例えそれで傷を負っても、必ず完治する。

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心の機微は素粒子のようなものとして捉えられる。
強く相似なもの同士の結びつきで大きくなり、機能を増していく。
そしてそれらを肉眼で観測できる最小の単位が言葉なのである。

三島由紀夫の「詩を書く少年」と、ミシェルウェルベックの「素粒子」から連想された以上のような思想は、最近根付いたものなのだが、時間に比例せずなかなか深くまで根を降ろしたように感じる。

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日曜日の夜!

2011年12月3日土曜日

パソコンないとあたし死ぬねん

lenovoのThinkPadE420を買った!性能に比してまじ意味わからん安さやから、割とカスタマイズして良い感じの装備にしたった!具体的には指紋センサーとかつけて、CPUも底上げして、メモリもデフォで2スロットのところ同容量で1スロットのに変えた!!指紋センサーいらねえええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!!

それがついさっきお隣の中国(天国と地国の間にある国)から発送されたというメールがきて、我今期待ニ胸躍ルの状態にあるのよね。

そしたら、そのメールを確認してからというもの、俺の愛用機大学の生協で買ったクソFMVが、いつもの暴力的なファン&ハードディスク音を鳴らさなくなった。

これはゆゆしき事態やわ。完全に寿命を悟って何かする気や。おれがデスクトップに置きまくってるテキストファイル(色んな書きかけのもの)をまとめて地獄に送る気かな?

まあだましだまし使い続けてバッテリーをはじめとするあらゆる機能がゴミになったので、今キーをかたかた打ってるこいつは別にサブ機とかにはならずに、ハードディスク叩き割ってどっかに引き取ってもらうつもりです。

こんなわけわからnソフトがインストールされまくってESCキーも取れた子に正直言って愛着はわかない。
「わけわからんソフトが多い」ってのがかなりでかいな。もうなんか色んなところに色んなファイルがありすぎて。。。。。


次に家に来るやつには、以下のフォルダしか作らずにおこうと思います。

「音楽」
「写真」
「ムービー」
「TXT」
「EROS」
「ブックマーク」


はいこれだけ。これだけあれば生きていける。
ソフトもiTUNESとIEのみの情弱仕様。クソクロームはもう入れない(←クソクロームっていう言葉の響きがめっちゃ好きで最近よく言ってる)

あと、ことばの響きで好きなのって言ったら、「庄屋か」っていう突っ込みが最近お気に入りやねん。

先輩とかに仕事振られたら極力「はいよろこんでー!」って言うようにしてんねんけど、5人いたら1人しか『庄屋か!』って突っ込んでくれへん。
ちなみにその突っ込んでくれる先輩が貸してくれたラーメンズ小林賢太郎のDVDをさっきまで見てましたが、内容が濃すぎて完全にお腹いっぱいモードになった。途中でやめた。

金曜日は野性爆弾川島の演劇に行きたかったけどいけなかったからまた機会を待つぼっくり。(しゃれ)

あかん、あかんわ

物を書いて遊ぶという行為を大学生の頃よくやっててんけど、それを最近復活させようとしてるねん。

あの時ほど生きることに時間有り余ってないけど、その代わり色々捗るようになったから大丈夫やとおもうてんねん。

そんで、前のブログ「不機嫌な僕のダックスフント」をひたすら読み返して、俺ってどういう物を書いてたんやろうって漠然と見ててんけど、びっくりした。


何にびっくりしたって、その正直さによ。

文章が下手糞すぎて読んでられへんところもあるけど、書いてることが正直すぎてすごく驚いてる。
むかついてるから批判して、楽しんだから喜んでっていう、当たり前のことをずーーーーーーっとしてる。

今の俺はどうだ。

意味と文字数ばっかり多くなって、絶対に本当に書きたいことをかけてない。
生活のことをブログに一切かかへんのもそうや。なんかおかしい。絶対におかしい。

思えばこっちに切り替えてから、ブログ書くのになんかのルール設けて、そっからあんまり楽しくなくなった。

くそが、なんで22歳になったらまともなことかかなあかんねん。Web上で関西弁使わへんねん。敬語やねん。

今までの記事は全部好きやけど、俺は自然になりたい。ちんこのとこにゾウの牙みたいなんつけて、ヒッポリト文明一の凄腕占い師ホストになりたい。

あと西のカリスマ栗剥き師にもなりたいし、闇武道会のイベントプレゼンターにもなりたいし、焼きビーフンも食べたいし世界とか一つで平和になればいい。

おわり。

2011年11月26日土曜日

学びて思わざればすなわち罔し、について

「努力の人」とか「成功者」とかいうキャッチコピーは最近あまりみないが、先駆者的な役割をかつて(今も)果した(ている)人達の話というのは中々に価値があるものだと思う。

だが、そういった人達がスタートラインから一つの目的に向けて走ってきたかどうかは危ういということにも気付いていないといけないと思う。インタビューや講演というのは、少なからず商業用に加工された言葉をもって構成された、一連の創作だからである。
「『○○になりたい』という目的をしっかりもってやり続けてきた」と、今になって語るのは、いわば後だしである。
何十年前、その講演者が若かりし頃。グングンと栄養を吸い、学び、考え、経験し、成長を続けていた頃。
そのときから、彼は既に目標・目的を明示的な言葉で固め、自身の未来に向けて据えていたのであろうか。私はそうは思わない。

目的を達成し、まさに次世代の人間たちの先達となるために自分自身の経験を惜しみなく語ってくれるその人は、語るに連れて気付かぬうちに言葉に囚われ、過去の自分の脳内を急激に現在の状態まで成長させたという錯覚に陥っているのだ。
今になって雄弁に自身の成功や挫折を語る彼が、まさにがむしゃらに走り続けているかつてのときから、今振り返って思われる『人生の目標』をくっきりと浮かばせていたとは考えられない。それは「がむしゃら」ではない。

きっと、言葉にならない願望や感情の断片が、数多の粒子状になったものが当時の彼の頭の中を揺れ動いていたのだと思う。
ときにそれらは結集し、一つの具体的な像のような姿を成したかもしれない。
ときにそれらは霧散し、彼の眼を曇らせ眩ませるだけの濃霧にもなったかもしれない。
しかし、ときたまチラつく幻のような自分の真意を認識し、直観を追い続けることができるのであれば、きっと何年後・何十年後に、粒子は増え、密度を増し、やがてくっきりとした像を成すのだと思われる。
時が経った彼らはその像を認識することで、あたかも若かりし自分はずっと前からその像を知覚しており、それだけを追い求めた健気な青年だったと、過去を振り返るのだ。
それだけではない。もしかすると、彼は過去を思い出して語ることで、その当時認識し得なかった自分の真意をはっきりと認識しているのかもしれない。
もしそうであれば、彼にとっては素晴らしいことである。
だが、素晴らしいとは言え、今を走る若輩者たちにその知覚された経験を差し出すのは残酷だと言わざるを得ない。
なぜなら、彼が差し出す『俺は20歳の頃こうだった』『君等も20歳のときはこうすると良い』は、本当は数十年分の経験を上乗せした後、多少薄めることで作られた「架空の20歳」だからである。
そして、若者がその真似をして自分をしっかり知覚しようとしたところで、得られる現実の像の持つ力はたかが知れている。

先達の語るかつての20歳と、生きる自分の20歳を比べて思うのだ。『僕は無力だ』と。
私たちは、先達が優しさで示し出す幻の若者なんかに、惑わされてはならないのだ。


おわり。

2011年11月9日水曜日

まだ続く僕の嫉みの話

前回の記事に引き続いて、あいつらについての話をしようと思う。

今回焦点を当てるのは、あいつらが世界を切り分ける様についてである。

前回の記事では、かなり感情的になってキーボードをたたきまくったから、あんまり読みやすくてわかりやすいとは言えなかったと思う。(あれはまじですぐ書けた)


あいつらは、主に容姿のレベルや、衣服のセンス、日常的なセックスの可否、そして一人で他者を批判しない心の有無で、人間を分ける。どんな小社会にでも、「3人以上」いれば、そこにコミュニティを作り上げる。
そのコミュニティの中では周囲(この周囲が互いを必ず認め合う「みんな」であることが重要) からの評価こそが生きるライセンスになるのだ。

そういう「みんな」となった者たちは、上でも下でもない、しかし確実にチガウところから、「みんな」でない者たちを見る。

たぶんそういう構造になっている。書くの疲れたからまとめる。


考え方や感じ方は色々ある。
主に「自分(myself)」と「全体(world)」  であり、どれだけ切り分けたって一つに包括されることを逃れることはできない。


彼らは、全てを一つに包括する体系を拒絶する。
だから私も、innner と outer を作りあげた。

私と彼らの間で決定的に違う部分は何か。

それは、自らを 内側(inner)におくか、外側(outer)に位置付けるかの違いである。

そして、自らを内側におく類の者たちが使う言葉は「みんな」であり、外側に位置付ける者たちは「自分」と、そのような言葉で自らを呼ぶのだ。

内と外ではどちらも互いに分断されている点では同じだが、私は絶対的に後者であるのだ。(ここで自身を後者に位置付けたことにも何かしらの意義があり、先から「位置づける」という言葉を以てして自らを説明することにもきっと意味がある)

2011年9月30日金曜日

言葉なんてのは「好き」と「死ね」だけ知っていれば生きていけるんです

若者が。
若者が若者が若者が
「けだるい」「広い交友関係」「繋がり」「自由」「何にも縛られないで生きる」「自然体な」「ありのままの自分」「やる気にあふれる」「向上心のある」「人を大切にする」「人に関わる仕事がしたい」「ゆるい」「てきとー」「自分のセカイ」「ダウナー」「コミュニケーション」

そういう言葉を好む若者が嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い

あいつらの汚さ
自分でじぶんの汚さに気付いていない汚さがほんとうに我慢ならない殺したい全員殺したい

自由な世界に生きてるなんて嘘嘘嘘嘘嘘嘘 嘘。
好きな服きてその場で会っただけの奴らと仲良くなり、愛し合い、自由に生きるなんて、生まれつきの容貌の良い一部の限られた人間にしかできない。

なぜならそれは限りなく閉じた世界。自分達を選民だと思っている

俺みたいな心の体も醜い根暗な人間はあんなサークルへ 入れる訳がない。 これはただの嫉妬ではない。嫉妬以上のメッセージを込めている。あんな自分たちで「自分たち」を選んでいる奴らが「自由を求める」なんて嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘クソクソくそクソクソクソクソクソクソ排他的排他的排他的排他的排他的排他的排他的排他的排他的死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。

同じ空間を共有しなければならなくて近付いても、外見容貌見た目で否定されて嘲笑がずっとずっとずっと続く。そんなんわからん。なんで笑われてんのかわからん。

あいつらが自分達のことを、誰とでも分け隔てなく人と付き合うとかそういう感じに思い込んでいるそのさまがむかつく。
そしてそのような気持ちの悪い偽善的で(この文章のように)何も考えられていないメッセージに対して共感する若者、恥も外聞もなく「あなたたちのセカイの仲間に入れて欲しいの」とかほざく奴らも嫌い嫌い嫌い嫌い。


でもそれよりもっと万死に値する存在が、シニカルだかなんだかそんな面して「おれ達は自由な訳がない」とかほざく奴ら。
「俺はまともじゃない」「私はわがままだよ」「俺は良い人じゃないよ」とかいうね。自分で自分の低能さに免罪符を作るという最も愚かで生きているべきでない人間 。

入り口がない。俺に開かれた入り口だけがない。

そして絶対俺だけじゃない。 絶対俺だけじゃない。もっといる。 だから疎外感に死んでしまったりしない。もっともっと生きていなければならない。

いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ

いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ

いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ

2011年9月25日日曜日

夢の中で走るときのように、靄を払う腕には全く力が入らない

現代人には?日本人には?

範疇はわからないけど、人間には、以下の特徴がある。

・些細なことを大声で騒ぎ議論する
・複雑な事柄から(無)意識的に目をそらす

最近のニュースや、会社という組織に入って自分の能力を発揮していることで、色々知りました。
メディア媒体の報道なんかはこの特徴によく合わせて作ってある。


そして往々にして、こういうことも併せて言える。

・「些細なこと」=「自分がわかる(議論できる範囲の)こと」
・「複雑な事柄」=「早急かつ真剣に向き合うべき問題」


人間は、力無く、愚鈍で、それでいて利己的な存在だ。

だから、

力のない中でも力のある方のやつ
愚鈍な中でも他よりマシなやつ

そういう立ち位置を求める。

すると、周囲の評価(もしくは環境に影響され作りあげた『ジブンのカチカン』)で高評価を得られるように、他者に(自分に)効果的なアピールを模索する。


例えば複雑な事柄を紐解き、解を導いたところで、評価の量的な増加は認められず、もし得られたとしてもそれは本質をつかない漠然とした「すごいのか」という感情である。(無論、それも周囲が「すごい」とほめそやすセリフを聞いてのことである。)

一方、「些細なこと」=「一人の人間にわかる範囲のこと」=「大概の人間がわかる範囲のこと」を発見し、大層に分析し、大声で怒鳴りちらすそのアピールは、多くの人間の耳に、殊正確に届くことだろう。

そしてその声明は、知的水準の低い人間の理解という湖に波風立てずストンと沈むものであればあるほど、高評価になる。



新しいこと、形の掴めない漠然としたこと、数多の歴史が絡み合い複雑に凝固したことなどに立ち向かい、もがき暴れる必要はない。

自分にわかる範囲に目を凝らしてさえいれば、処理・分析能力の高い人間として一定の評価を得続けられてしまうのだ。


そこには意志もあるし、何か問題を良くしようと真剣に考えての行動もあることだろう。


ただ、俺はそんな狭い範囲で智慧をうろうろさせる状態を、かっこいいとは思わない。



はっきり言って、今こうやって書いている記事も、俺にわかる範疇のことである。
当然だ。これは文章だ。脳が織りなす意識の爆散と収斂を経た後の搾りかすだ。



行動というもののやり方がわからず、考えるということのやり方もわからない。

ただ「思うこと」ばかりやってきたので、俺の中には他者がいない。


自分がそんな状態を抜け出そうとしているのはわかるけど、具体的なメソッドを立てることと向き合ったりはしない。
歯がゆい。冒頭で偉そうに批判した人間と、俺は何一つ変わらない。


わからないことを凝視すること。
わからないことを自分に取り込むこと。

これが凄く難しいことがわかった。やり方はまだわからない。


でも、知覚は全てにおける第一歩だと考えるので、今は少し嬉しいと思う。

2011年9月24日土曜日

止まって、わざと、煌めいて。

澱む水槽、混濁する夢想

セクシュアルモチーフ、倒錯のトーキョーライト


真実はどこにある?

思い出せない、が増えていく



体は水に沈んでいく


隔たり
隔たり

見ずに死んでいく

2011年9月16日金曜日

弱虫毛虫

こんにちは。

人から「メンヘラ」と呼ばれることが何回かあったので、実際にメンヘラの人と会って話してきました。
そのときのことです。


長々と一部始終と思ったことを書こうと思いましたが、明日は早いので簡単に書きます。


インターネットで募って、20代から心の病気を治療中であるという30代の男の人に、話を聞いてもらった。


結果から言いますと、あんまりよくないみたいだった。なんか結構キてるっぽい。

話しを聞きながらすごい怖くて、何回も机の上のコーヒーひっくり返して走って逃げたくなったけど、頑張って最後まで聞いた。
(それでもやっぱり今日は話の途中で切り上げさせて貰った)



素とのギャップが激しいパブリックイメージが凝り固まり過ぎて、自分で自分がよくわからない状態なので、バランスが崩れやすいそうだ。へえ。

入社後に会社で受けた面談でストレスなんたらの専門家に「性格が矛盾しているから気をつけて」と言われたのを思い出した。


まあ今日会ったその人はお医者さんでもなんでもない普通の人やったので、全て信じることはないけどね。


そういう感じのことを聞いたので、さっそくですが、今までしなかったことを色々していこうと思う。


俺は、「病む」っていう言葉がすごく嫌いだった。

その言葉を、ただの機嫌悪いだけの自己中心的なクズが周囲の気を引くためによく使うからだ。


だからこんなことをブログに書くのはすごく弱虫なことだから書きたくなかった。


でも書きたかったので、こうやって書いた。
嫌なのは嫌なので、ツイッターとの連携は解除した(はずや)けどな。

こういうことをしばらくしていこうと思います。

――――――――キリトリ――――――――

自分は変な人のふりをした普通の人やと信じてたけど、違ったぽい。

これはさびしいことですね。

2011年9月11日日曜日

このブログ

惰性で続けている。

このブログで声を張り上げたいことはいっぱいあって、実際それらはEvernoteの中に全部放り込んである。
でも投稿する気にはならない。

だからしばらく、ブログに慣れようと思うので、適当なことを書きまくろうと思う。

日記を書こうと思う。

何か変わればいいなあと思う。

――――――――キリトリ――――――――

自分で淹れたコーヒーの方がおいしいけど、ボトルを洗う1分くらいの手間を考えてコンビニでコーヒーを買ってしまった。(ストローを挿して飲むタイプ)

おいしくなかった。

――――――――キリトリ――――――――

自分が無知すぎて、本当に恥ずかしい。

無我夢中で知識を吸収したいが為に本を読みまくっても、それを使うのがとても下手だから、だんだん本を読むモチベーションも無くなってくる。

オセロとか将棋が下手で、テレビゲームもすごく下手です。

根本的に思考力が悪いのに、なんで俺は義務教育の中で自分は頭が良い、って思い込んでたんだろうなあ。

――――――――キリトリ――――――――

政治のことが本当にわからない。

どのポストが誰にどう変わったら国にどんな影響があるのかとか全くわからない。

党のこととかもわからない。

何もわからない振りして達観した鋭い一言を投げるということもできない。

ただ、情勢論が嫌いという姿勢で斜に構えたまま、何もわからないでいる。

――――――――キリトリ――――――――

自分は、考え方や感じ方、ものの見方がはっきりしていない人間だと思う。

幸せな食事

今日はトマトソースを作ってスパゲティにかけて食べた。

具はキャベツときのことソーセージだった。

スパゲティはきちんと茹でられていないので硬くパサパサしていた。

キャベツは噛んだときにとても青臭かった。

きのこは味がしなかった。

ソーセージは火が通っていないので中が少し冷たかった。肉の味がした。

2011年8月1日月曜日

全能感について思うこと

桜井青の音楽や筋肉少女帯の音楽などの、ひねくれたものがとても好きです。

この時点で興味の無い方は、恐縮ではありますが今日の記事を読むには適しません。



今回は、それらのひねくれた音楽が好きだった私が何故今もさらにその気持ちを加速させているのかを考えました。

その加速度は、私がトーチカというバンドを振り返って考えたときに得られた「全能感」という(最近自分の中で流行っていた)言葉を理解したことで、さらに熱を帯びたのだとわかりました。

まだ産まれたてできちんとした体系も持っていない解釈なのですが、いかんせんブログの更新頻度が落ち気味であるので、備忘録的に一部ここに書き留めておこうと思います。

――――――――キリトリ――――――――

(中略)

強い人間と弱い人間の欠点を集めた人格を有していたことが、このバンドの特徴であります。

それは油断や無謀、はたまた臆病や逃避といったもの。
自分のアタマの強さを誇示する日陰者の被害者は、スピードをあげることに怯えながら、そのスピードで何もかもを振り切っていました。

つまるところ、このバンドは、どうしようもなく矛盾していたのです。

その矛盾とは、激しい劣等感と、その自分の劣等感は何者にも届かない(と信じる)優越感との間に生じるものです。
ここでは、優越感というより全能感と称した方が、より近いニュアンスが伝わるかもしれません。

あらゆる劣等感を激しい怒りの中で悲観的に認識し続けることで、まるで全ての人間の悲しみや汚さを知ったかのような高尚なふりをすること。
 
「おれが一番つらくて悲しいんだ、誰にも理解できないだろう。」


その全能感を得ることへの道筋は、私がトーチカの中に見い出した青春の一つです。
 
このバンドが本当にそんな性格を有していたのかは知りませんし、わかりません。
私は自分の歩いてきた人生と照れし合わせて一緒に考えることで、そのような全能感の得方を知り、また、そういった手法が見える音楽が自分はとても好きだということに気付いたのです。

――――――――キリトリ――――――――
 
今回私が言いたかったことは、
 
>強い人間と弱い人間の欠点を集めた人格を有していたことが、このバンドの特徴であります。

この一行にまとまっている気がします。
 
 
それが全てではないですが、なんというか、そういう感じがします。
自分でもなんでかはまだちゃんと考えていませんが、私はそういう矛盾した、あべこべな感じが、とても人間らしいのに人間離れしてる感じがして、なんだかかっこよく思えるのです。
 
これを読んでる方がそういう私の機微を少しでも「わかったかもしれない」という気分になってもらえればいいなあ、と思って、この記事を書きました。
 
 
眠いですのでこれで終わります。
 
 
――――――――超キリトリ――――――――
 
「ブログ楽しみ」っていう言葉が、私にとっては、愛してるとかあなたが必要ですとかそういう類の言葉の最上級に聞こえます。 

そう言ってくれた方々に、ありがとうございますねー、とここで一言書きたいんや。

おわり

2011年7月15日金曜日

宝物あげるから、それに代わる何かをくれ

という思考について。

これはMOGA THE ¥5のある歌の歌詞なのだけど、とてもいいことを歌っているので、周知したいと思い、こうして時の止まっていたブログに、今更となった、あのMOGA THE ¥5解散ライブのときの記憶時間を挿入しているのであります。

例えば私が試験に向けて勉強するとき、何か仕事で成果物を作るとき。
そのようなときにかける時間と努力は、きっとそれ相応の成果をもたらします。
描くならば非常に綺麗な比例の曲線となるのではないでしょうか。
そして、ここで一番大事なのは、ほとんどの人間がそのことを、理性でも本能でも理解しているということです。


次に思い浮かべるのは、例えばとりとめのない思想に耽るとき、物語を構築するとき、歌を作るとき。


私たちは、それらの行動の為には、時間と努力だけではないたくさんのものを費やすことができます。

それは経験、あるいは記憶、あるいは苦悩、あるいは絶望。
意識せずとも自らの中に確立している何らかの思想を、明文化することで得られる感情。

自らの内から湧き出るそれらカタチの無いものを歌や思想に込めるのです。


そのとき、人は自分の込めた想いに対する執着と、作り出すものの素晴らしさを、簡単に比例の曲線にしてしまうのではないでしょうか。


思い出やトラウマが自分にとって凄惨たるものであるほど、たくさんの人の心を打つ歌が出来上がると。

作品の源泉とした記憶が昔のものであるほど、全ての人間に感ぜられる詩が出来上がると。


そういったことを無意識の内に考えてはいないでしょうか。



「宝物あげるから、それに代わる何かをくれ。」

無意識に、口ずさんではいませんか。

私の宝物は、誰かの宝物でしょうか。

2011年5月15日日曜日

インガロイドM(仮)

日常に溢れかえる事柄やイメージを、世界における壮大な構造の一つの縮図として結び付けて1つの真理を作り出したように考える一連の行為は、Mが精神の健全性を守るために行う方法である。
 
その行為の愚かさに気付くことは容易くなく、その行為によりMは主観を客観とをはき違え、また境目は互いの領域を侵し合う。

――――――――キリトリ――――――――

最初から実現を求めぬ理想。
ただ阿呆のように手にぶらさげ、ときたま誰かにその内容を漠然と伝える為の理想。

高潔に生きる為にその発想を開始したことは間違いない。
しかし今ではこのザマである。
理想は、Mが様々の思想や人生と交わり、成長と懐胎の末、心を苦痛に歪めながら産み落とした「子」であった。
 
確かに息づき、変わり、成長するその思念を、しかし社会は「妄想」という言葉に閉じ込め外に出すことを強く否定した。
 
 
社会はそれを 「妄想」という言葉に閉じ込め、外に出すことを強く否定した。

――――――――キリトリ――――――――

肥えた容貌を恥じて衆目を忌む者の如く、Mは衆目を憎悪し、またそれと同等以上の嫌悪をそこに見い出した。
本当は、そのような目はどこにもなかったのかもしれない。Mが自身の妄想の中に作り出したものを感じているに過ぎないのかもしれない。

――――――――キリトリ――――――――

轟音を鳴らし異常な速度で回転する黒い楕円形のそれは、少しずつその大きさを拡げていく。
 
果たしてそれは本当に巨大化しているのか。
それともこちらに近づいてくるが故の目の錯覚なのか。

――――――――キリトリ――――――――
 
              
――――――――キリトリ――――――――
 
――――――――キリトリ――――――――
――――――――キリトリ――――――――
――――――――キリトリ――――――――

2011年4月21日木曜日

集めて浮かべて零れてね

俺は本気で世界を良くしたいと思って、色々やってきた。

間違ったことを正す為に勉強して、感動を与える為に自分が色んな感動を味わって、
暴力によって俺を虐げる奴らがいなくなるような、そういう環境を作りたいと思ってきた。

その切り口として、俺は2011/04/01から仕事をし始めた。

仕事はむっちゃ選んだ。
周りの人ら全員に影響力のあるようなことがしたかった。

大学時代の「いなくていい人」であった自分を壊したかった。

そんで、今のところは間違いなく、このブログを見てる人には間違いなく、そして見てない人でも日本人ほぼ全員の手助けになれる。

いつかギャップに悩む日が来るかわからんけど、これ書いてるときはまだまだモチベーションがこんな感じやったことを記しておく。

なんかどこまで書いていいかわからへんからここで止めとく。もっと面白い記事書きます。

2011年3月31日木曜日

恐怖!毒人間のクスリ屋さんが僕の頬を優しくなぞる拒絶作用その光悦にまつわるアレとコレ

「○○な男」や「○○な女」のホンネを把握し、自らに都合よく操ることを目的とした俗物心理学のTV番組や本が溢れかえっています。

その裏には大衆の嗜好をCMや情報扇動で管理することの難しくなったマスコミや汚く肥えたやつらの意図やなんかがあるかもしれませんが、私の今日の話はそういう陰謀論を突っ込むことではありません。


結局”○○男子”などというやり方で一様に人物をくくるのは『偏見』です。

こんな無理やり作られたような言葉に興味はありませんが、『偏見』というものの作用や使い方には私自身とても関心があり、考えることも多いので、今日はそれについてまとめようと思います。

――――――――キリトリ――――――――

最初に、『偏見』とは、ある人間に対して少ない接触で「自分に合うか・合わないか」を判別するためのスキルだと私は考えています。

太った人には良い人が多い――いや自分はそう思わない。

嫌いなタイプの顔だなあ――この顔はタイプだけど気が強い子が多い。


などなどあげていけばキリがありませんが、人はそれぞれの人生経験から見出した各々の偏見を持っていることと思います。
全員が意識している当たり前のものなのですが、今一度その意義について見直してみましょう。



人間は学習する生き物であり、過去の経験・歴史の失敗と成功から何かを学び取り自身の生き方をよりよくしようと葛藤します。


その中でも最も身近で最も対人関係の形成に特化した学習機能が『偏見』なのです。

(嫌な思い出かもしれませんが)自分が危害を加えられた人間の顔や性格、声や話し方を思い出してください。
例えばそのどれか一つでもとてもよく似た要素を持った人を見たとき、あなたはどう思うでしょうか?
よほどのお人よしでなければ「苦手なタイプの人」と処理し、積極的な関わりを避けるのではさいでしょうか。

また、自分の友人や昔よく関わった人なんかによく似た考え方や特徴をもった人と新しく出会ったとしましょう。
きっとそういう人とはすぐ仲良くなれるはずです。
それは偏見により、どういう話をどれくらいの表情・距離感で話せば「こういうタイプの人」と一緒に楽しめるかが自ずと知れているからです。

それこそが偏見の意義なのです。


初めて会った人間でも、どう接するべきかある程度の目安をもって臨めること。
そして今の知人にもより円滑な関係を気付くための接し方に切り替えられること。

それらは全てあなたの築き上げて、塗り重ねてきた偏見によってもたらされた恩恵なのです。
偏見とは人の噂話やあるあるネタを話すときだけの為に存在するのではありません。

ものには有効な使い方があり、要はそれに気づけるかどうかだと思うのです。

――――――――キリトリ――――――――

また、偏見には定期的な点検が必要です。

「人は見かけによらない」という言い方があるように、自分の抱いた第一印象や偏見と、相対する人間の実際の人物像が異なる場合はもちろんあります。


その言葉を思い出したときこそが、自分の偏見を調整すべき瞬間なのです。


実験や統計調査において例外・異端値は貴重な情報であり、何より人間と言う不安定なものを相手にしたこの偏見作りにおいては決して看過すべきでない重要な要素となります。


もしあなたがある印象を抱いた誰かに会って深く言葉を交わし、自分の偏見との差を感じたら、そのときは速やかに偏見を再構成してください。


偏見の調整の際に気をつけなければいけないのは、過去に身知った例となる人間たちと今自分が相対している、さっき会話をした人とで「何が違うのか」。
その相違点を徹底的に洗い出し、違う理由を突きとめることです。


――所属した部活が文科系だった。
――家が裕福だった。
――趣味がこういうタイプの人に多いものだった。

など、細かくとも自己流の判断でも、とにかく考え付くだけの違う理由を考えてみましょう。
思いついたら、それを今まで自分が抱いていた偏見に関連付けて、もう一度練り直してください。



繰り返しになりますが、偏見とは学習プロセスのことであり、歳月を重ねて経験を積み、多くの人に出会い関わるほどにより正確なものに近付いていきます。

決して「情報量が増える」のではなく、「正確になる」のだと覚えておいてください。

人は多くの側面を持ち、善悪の区別をつけることは一般には困難ですが、過去の経験から、自分との相性くらいはわかってもいいのではないでしょうか。

――――――――キリトリ――――――――

いくつか前の記事で「自分自身を簡潔な言葉で言い表すのは、可能性の拡がりを妨げる」という趣旨のことを書きました。

これは24時間ともに生き、止まらない成長を感じ、また促し続ける自分自身にだからこそ言えることで、所詮一日のうち数時間、一年のうち数ヶ月間しか共に時間を過ごさない友人や仕事仲間については、ある程度の偏見に当てはめて考えてみても良いと思います。

しかし、多くの時間を過ごし、また内面の奥深くまで心を通わせる恋人、家族に対してはどうでしょうか。

――――――――キリトリ――――――――

よく生きるには、普段の知識や慣習について見直してみることが大事だよって話でした。


何も考えずに生きるっていうのは罪だと思うよ。

「ボタン押したら知らん間に出来てた」を何も考えずに受け入れて生きることの虚しさ間抜けさ意味の無さはすさまじい。

おしまい。

2011年3月23日水曜日

ポリ袋にちゅめて

引っ越しとか地震とか、バイトの最期とか色んなことがありまして


今おれの部屋は最高に散らかっている。

でもそれは散らかっているのであって、汚いけど汚れてはいない。

部屋の状態は心を映すとか言うが、それなら俺の心は散らかってるけど汚れてはいないのだなあ。


そういう感じのことをぶつぶつ言いながら、昔の物を捨てたり置き場所を変えたりしてる。

 それらは小っさい頃の思い出を思い出させてくれると同時にものすごい埃で俺の眼と鼻の機能を奪いやがる。アレルギーと親知らずと盲腸は人体から排除するべきやでしかし。


一つ気付いたんやけど、小学校と高校にまつわる物は結構保管してても、中学校の時の物が圧倒的に少ない。卒業アルバムすら見当たらないぜ。

かの人格破壊期間で喰らったダメージはどんどん回復していますので、僕は4月から頑張れそうです。
最近になってプラス思考と言うか、ポジティブな考えのことをどんどん言うことに引け目も恥もあんまり感じなく

いや、引け目も恥も感じてはいるけど、そんなくだらんもんは許容することが出来ています。



最近の僕の思想の流行りは、自分の安心や満足や恥や不快感などというものを排して物事を捉える事です。

とても難しいので1/10すら実践出来ていませんが、飽きたり考え直すまではこのまま生きます。

なぜならこの思想、他人にものすごく優しい気がする。

――――――――キリトリ――――――――

最高に優しい人っていうのは、人の嫌がることや言われたくない部分を知っているので、心掛け一つで最悪に有害な人間にもなれるはず。

という感じのことを考えたので、僕も心掛け一つでアカンとこを一発逆転する術が無いか模索中です。



そしてまた日常生活がおろそかになるので、あと3~4日でいなくなる部屋が寝るとこ無いくらい散らかっています。

おわり。

2011年3月5日土曜日

横線二本に掛ける橋

近頃はソーシャルメディアが広まりすぎて、ただの暇つぶしや自己顕示にしかそれを利用しない輩が増えて来ましたね。

人との接触というのは、繋がりの安心や満足を得るだけではなくてもっと大切な価値に気づいたり発見させてくれる作用があると私は信じています。

しかし影響力の強い人とのコミュニケーションは刺激が多い分、自分を見失いやすくもなるので、度々自身の思想について確認することも大切です。


今回はそこで用いる『自己言及』という行為の忌まわしい作用について書きまくります。

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さて、自己言及の恐ろしさはその枠組み形成機能にあります。

「僕はこういう性格の人間です」
「あたしはこれしかできないから」

自分自身についてよくこういう言い方で語る人がいます。

ときには、
「私はわがままだからね」

と、自らの欠点を自分でわかっていると言いながらその改善に乗り出さないと宣言する者もいます。

多くの場合、自分の欠点を自分で分析することで満足してしまい、本当に悪い自分の性質には気づいていない場合がほとんどです。

人は他人に自分を紹介するときに、所属組織や生まれや星座や血液型を用いて自らのキャラクターをある程度の型にはめることで、簡単に短いキーワードだけで人となりを説明することが出来ます。

それらの項目は具体的で、また広く社会に認められている言わば"確実な"アイデンティティの要素であります。


今日の文章で批判するのは、文頭に取り上げた様な、"自分自身の内面に対する"自己言及です。


人間の思い込みというのはその人の意識下・無意識下において強い拘束力を持つものです。

そして先に述べた内面への自己言及は、人付き合いなどの際の行動選択を簡易にする為に、自らについての先入観を形成する機能を持ちます。

自分で造った言葉で自分を表現したそのイメージはとても強く脳裏に焼き付き、現実の姿にもその影響の手を伸ばすことでしょう。

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さて、これはとてももったいないことではないでしょうか?

よくある言い方ですが、一人の人間には本当に限りない可能性が存在し、日常の思い込みや常識を覆すことで思いも寄らない行動を起こし想像以上の結果を掴むことが出来ます。

そこに立ちはだかる偏見や先入観は、往々にして私たちの歩みを止めて、環境の変化に対して悲観的な気持ちを形成させます。


↑に取り上げたような "自分で自分の特徴を語って完結する" タイプの自己言及を「=型」とするならば、私が強く勧めるのは「≠型」の自己言及です。

自分の尺度や社会的な尺度で判断し、世界や自分や好きな人たちの "為にならない" と感じた事柄に対し、「自分はそうではない」と語ることが「≠型」の自己言及だと言えます。


私はこのブログやTwitterなどで、自分のおかしいと思う慣習や人間の行動を強く根拠づけて批判するのですが、それはこの自己言及のプロセスの一部となる行動です。


この自己言及はただ一つの正解を導く為には相当な遠回りだと言えます。

しかし回り道には往々にして思いも寄らぬ発見があり、それが決して完全に無駄なものではないことは、皆さん共通の認識でしょう。

x=1
x≠1

斜線一本あるかないかで、変数xのとりうる可能性の大きさは全く異なってくるのはお分かりでしょう。

果たして一人の人間が困難に陥ったときにとりうる値(選択)は一通りのみでしょうか。
そのときのあなたの思考パターンは1パターンのみなのでしょうか。

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次に注意しなければならないのは、≠の向こうに置く値の吟味です。


例えば「人を殺してはいけない」「やりもせずに諦めてはいけない」など、一般的に言われてるものの他にも、きっとあなたは自分自身で大事なことをたくさん見つけるでしょう。

しかしそこで、「外国は危ないから行ってはいけない」「お金を無駄にしてはいけない」などのことはどうでしょうか。

どこかに行かないと決めてかかるのは行動の幅を狭めることに繋がりますし、お金に関しても「無駄」の範疇次第では思い切った一歩が踏み出せない原因にもなります。

むやみにあれも嫌いこれも嫌い!と叫んでいては、本来可能性を広げるためのこの自己言及が逆効果となり、
本末転倒の結果になります。

自分はなぜそれをおかしいと思うのか、しっかり説明できるようにすること。

また、あわよくばそれについて他人と議論してみて、ただの思いつきでなく本当に揺るがない思想だと確認することが大切です。

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わたしは前までこの手法を誤った使い方で乱用していました。

そのときに自分の周りに作ってしまった要らぬ盾や壁を探して壊すことに今でも必死です。


ですが、後悔はしていません。

わたしは自身のこの『能動的な拒絶』を誇りにも思っています。


おしまい。

2011年2月23日水曜日

おなかがへったマーチ

家具などを買い揃えて、親戚と食事に行く約束など取り付け、あとちょっとで生活環境が変わるのを実感しています。

今思いつくこれからも大事にしたい友人などを考えてみますが、割とみんながそうだと思います。

先ほどFacebookに登録して近所に住んでる昔の同級生などをさーっと探しましたが、誰一人として全然興味がわきまへんでした。


要するに、「済ませておくこと」なぞは本当に我が身に関わることだけだということで、つくづく自分の交友関係について悩みます。




今朝、ツイッターの方にも書いたのですが、組織というものについて。


前から存在する手法を考えもなしに全て受け入れる体質が嫌いなんです。

それは継承ではなくて惰性であり、進歩とはかけ離れたくだらない生き方です。


なんでこんなこと考えてるかと言ったら、ひとえに僕の嫌いな大学生を批判する為であります。

彼らが誇らしげに所属をPRするサークルや部活動と言うのは先輩・後輩の序列の強く意識される社会であり、そこには合理性や倫理観や正義と言ったものとは無縁の下らない思想がはびこっており、先輩が行ってきた習慣を無批判に受け入れるその根性を、繰り返される無反省なイベントを、そのどれも本当に見て聞くだけで気分が悪くなります。

彼らはその集団への帰属意識と安心感のせいで自分自身の視野を著しく狭めていることにも気付かず、ただその中での評価の獲得の為に活動する、外界からは必要とされない会話技術をひどく重視します。



あぁ



こういう自分の世界に閉じこもり仮想的を攻撃するような文章を書き続けても周囲にはただの偏執狂、パラノイアとしか思われなくなるのでもうやめます。



「あれが嫌い!」「これが嫌い!」と言うと、幼稚だなと言われました。

だから「どういう理由でこれが憎い」と筋道だてて説明できる技量を、勉強により身につけました。

そしたら誰も僕の話を聞いてくれなくなるので、とても危険です。わんだらーん。

2011年2月14日月曜日

転校生M、冷凍モモンガを買う

芥川賞を受賞した西村さんの「苦役列車」を読んだよ。

努力というものとは無縁の自堕落な主人公の下品で惨めで辛い場面や行いが矢継ぎ早にどんどん目の前を流れて行く、停滞する生活なのにスピード感のあるお話でした。
(↑当たり障りない感想)


こういう惨めな恥辱を曝け出す私小説は、読後にどんな気持ちを作ればいいのかその答えが未だに出てきません。

とりあえず一回読んだ今は自分の欲求がリクエストするままに、『こうならなくてよかった。』という高慢な思い上がった感慨でもって今の自分の幸せを再確認することにしました。


しかしそれだけではない、何かモヤモヤした気持ちが浮かんでいます。

同情とかそんな気持ち無く自分をこの苦役列車に重ねてしまうような感情がそれです。

それは僕の生来の自虐的思考によるものなのか、本当のところは現状に満足や幸せなど何も感じていないのか。

このお話の凄惨さは、そんな自分の苦悩も「薄っぺらい」と一笑に付すようなどこまでも深い闇を持つ、という感じでもなかったです。


正直、読んでて楽しかったですが、人生に関わる根源的な問いとかそんなものを喚起されることはなかったです。

もっかい言います、読んでて面白かった。本当に。

2011年2月13日日曜日

あたらしマンと内気なケーキちゃん

先週の水曜日からの東京滞在が終わった。

振り返ったり4月からの生活のことを考えたいですが、面倒だし今の俺には部屋の中をどうするかという題ばかりが頭の中にあるので、その日その日の俺の発言を思い出しながら短く振り返る。



9日
相模大野に滞在

「町田駅から出られないどうしよう」


10日
舞浜にて生きることの楽しさに咽び泣く

「うわあああああ」


11日
雨と雪がクソ降り注ぐ中、賃貸物件を5件内見した。決めた。

「後楽園ってダークシティですね。」


12日
契約。文京区に住みます。
ゴル健とかろちんのとこに鍋を喰らいに行く。ケニーも来てくれたよ。

「カエル達よ、都を襲え」


13にち
それは今日。夜から長谷川のライブ観に行く。
その後心斎橋のMOGA THE ¥5に行きたい。

今からは何て言おうかな。

2011年2月5日土曜日

駆け抜けろゼブラストライプ

そんで卒展に感銘受けた昨日の今日、畑本氏(http://twitter.com/tigusayayoiの工房に見学に行ってきた。

染物の知識は全くない。
ただ、それが甚大な労力や集中力によって作られとるいうことはわかる。


なので今日は、彼の仕事ぶりよりも、設備や保存されてる品を見る為のイベントだった。



職人の仕事場ってのは楽しい!

知らない道具や設備が山ほどあって、
そのギミックをいじって動かす時なんかむっちゃワクワクする。

この写真の場所が柄をつける工程の主な作業場。

この長い机にダランと乗せた生地に、型紙をあてて糊をあてていき、その後、染料につけるのだそうだ。


 完成した生地はとてもiPhoneの写真なんかでわかるもんじゃ
なかった。
着物の生地って、遠くから見たら無地で、近くでみるととても細かい文様が現れてきますよね。

あれすごい好きなんです。


だから彼がじっくり進めているという、生地のスキャン&アーカイブ化を待つことにする。

目が飛び出る位の値段のついた型紙も見せてもらった!


この模様、全部が一枚の型紙から作られたものだから繋がってるんだぜ!


型紙師は「染めてみろや」という気概で命を削って型紙を作り、

染師は「どうこれ^^」って顔で、自分の技術を駆使して一つの型紙から全く違う顔色の作品を作る。


そういういたちごっこなプロセスが行われてこの世界は切磋琢磨と回っているそうです。



なんだか素敵な話をきいた。

2011年2月4日金曜日

どこにもある

昨日は、京都嵯峨芸術大学の卒業制作展に行ってきたで!(ババーーーーン ドヤ)


卒業を間近にして、色んな友人の動向が面白い感じになってるのがたのしいです。


彼が出したのは「三秀院」というタイトルの三枚の反物でしたの。

「一番空に近い竹の葉の色」「石畳の色」「真竹の色」だけで大好きな天竜寺の三秀院を表したということだ。


写真を載せたいけど、撮影してもわかるもんじゃなくて

光を受けた姿を直に目で見るのが楽しいんだばあばばばばばば


でも写真をとってあいほんの待ち受けにした。
染物の柄はなんていうかミニマルで細かくて、とても合うと思う。



色で言うとね、あたしは京都を離れる前に禁色が見たいんだ。

――――――――キリトリ――――――――
禁色(きんじき)とは律令制位階によって衣服の色が定められたなかで、下位の者が着用を禁じられた色。転じて、着用を禁じられた衣装全般も含む。
――――――――キリトリ――――――――

 そんなかでも黄櫨染を再現したものが京都にあるというので、観に行きます。

光に当たると金茶色が赤茶色に変化するのがトテモ綺麗なんだそうな。


黄櫨染を発明なさった本人が“太陽の色”と称すその色を俺は見てみたいです。

2011年1月28日金曜日

浅く細長い叫び声

子供が激しく怒られたときの反応の一つとして、何を聞かれてもひたすら黙り込むっていうのがあるよね。

あれがとても苦手なんです。


僕は学習塾で中高生に勉強を教えています。
大学入学時から続くアルバイトで、たくさんの子供とその人間性と、濃い付き合いをしていると、たくさんのことを考えるようになります。

子供を叱るときには、理由をもってして立ち向かわないとダメだとは思うんだ。


自分の思い通りにならないからといって「なんでも良いから言うことを聞け」という大人はフェアじゃないと考えていきてきました。

だから正しいことを言ってる(と、自分が思う)大人の言うことはすんなり聞き入れることが出来てきた。

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よく「大人の言うことなんて(無条件で)くそくらえ」というスタンスの人間がいるけど、その感情の起こりは今のところ2つ思いついた。

一つは、子供のときに、大人に絶対納得できないような不徳をはたらかれた経験によるもの。

もう一つは、その経験に基づくパンクロッカーなんかのイカすメッセージ。
その表層しか見えず、それを模倣してるケース。


その二つ目のケースは非常にダサいので、子供が出来る事は、自己中心的な大人に無碍に裏切られ侮辱される経験を、可能な限り回避すること。

しかし残酷にもその経験によって傷つけられた子供は、かなり大きくなるまでその傷を引きずり続けてしまうケースが多いと思われる。

だからこそ痛みをきちんと捉えて、傷にならないようにしっかり自分を肯定する、もしくは肯定してくれる人間と出会うこと。

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でも子供にそんなこと出来ないから、大人がきちんとしろ。っていうことだなあ。



ただ、こっちが叱ってるのにひたすら黙りこくって説教終わるの待たれたら、まじであかん!!!

あれやられたらほんまにびっくりするくらい理性が消えうせる!

なんか注意されて黙られたら、やっぱり叱責の対象が「黙ってること」に移っていって、小言が増えるだけなんだよなああああああ。


苦手やわ。むっちゃ苦手やわ。


上手いこと俺と生徒とが納得いくやり方見つけたいなぁ。

もうバイト卒業するけど!!

2011年1月24日月曜日

ひゅー じゃなくて ふゅー

Phewのカバーアルバムが良くって、最近よく聴いています。


Phewが何物かは、wikipediaでもなんでも見てもらえばいいんですけど、簡単に言えば歌手です。


今からそのPhewの好きなところをつらつら書くんですが、今日の書きたいことと関係する一つの事実は、Phewが女性で、僕は女性歌手が嫌いだと言うことです。


あえて誤解を恐れずに(←この書き方も嫌い)「女性歌手」とまとめてくくりましたが、歌い方とかの感情表現が過剰で直接的な人が多いでしょう。


あの陶酔した感じがもうものすごくそれを聴いてる僕の頭をかき乱すんです。


Phewの歌は、まあ下に貼るのを聴いてもらえればいいんですけど、とっても力強い。



これはこういうパンクバンドに所属するからだっていうのもあるんだけど、とても個人的な感情に執着しているようには思えない。自分を尊敬し、大事にして大事にしてるようにも見えない。

そういうのが好きなんだなあ!


今回買ったのは、『ファイブ・フィンガー・ディスカウント(万引き)』というタイトルで、収録曲の中で特に耳に残ったのは、フォーククルセイダースの「青年は荒野を目指す」をカバーしたやつだ。



<a target="_blank" href="http://www.nicovideo.jp/watch/nm13211394">【ニコニコ動画】青年は荒野を目指す~Phew</a>


ここにしかなかった。ちくしょう。

2011年1月22日土曜日

とりかたつむり

天王寺Fireloopではホシヲという男の誕生日を祝う宴があり、俺はそれに忍び込んできた。
正面入り口からチベット代払って入った。

灰色の服で目立たないようにしてたけど、すぐ見つかった!

会うたびに久しぶり言うてくれる環境が心地よかった。



あいだ二組くらい見てねえけど、出演バンドは俺がいまさら褒める必要ない。

つちのこ、YULO、ハヌマーン、JUNIOR BREATH

関西にはこんな名前のすげえぇミュージさんがいます。



大好きなライブハウスFireloopには最高な人間がいっぱいいたけど、黒縁メガネの女子もいっぱい固まっていたし、パンクスな格好をした本物と偽物とが溢れかえってた。

あれだけ種類の違う人間が一同に会する光景は普段見られない!

そういう状態のライブハウスはごちゃごちゃしてて好きだ。

そのハコの身内っぽいのがいっぱいいるときは嫌やから最前列で誰も目に入らないようにするけど、今日は真ん中前くらいの位置でみんなが楽しいのを見ながら俺も楽しかった。

せっかくだから名前をあげようと思う。


君はジョニーだ。


ジョニーの2乗で ジョジョジョニー


ジョニー無限大ジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョジョ

ままごとハウスの壊し方

PP陽ょ路裏陽ょロロ裏呂ルリ裏。


誕生日といってもいつもと変わらず日課をこなして、明日がある明日がある言うてたら23:59がすぐに過ぎてその明日(22日)が来てしまっただわさ!!

これは早い。せいじオメデトス!


いまジャパンではナ☆な☆Na☆内緒の秘密の神話は中産階級特有のルサンチマンが発露したございます


遠くに行ったらワダイがたくさんあるけど、今日は一日家にいたから書くことがない。

バイト先の学習塾の生徒の自転車が盗まれました。

俺じゃないです。

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これは、いざ人間が態度とか挙動を変えようとおもってもなかなか変わらないって話。


慣性。心には慣性がはたらく。

感性には慣性がはたらくから今までの考え方や書き方の枠組みが急に変えにくい。


継続は加速なり。

長年続く悪性の、小回り効かぬはトラックの如し。

2011年1月21日金曜日

22トピア

こんにちは。

私は日本国の京都府に住んでいる大学生のSayjickというもので、今日22歳になりました。

周囲からは「セイジ」と呼ばれておるのですが、アルファベット表記がかっこいいのでこの名前にしました。


強い興味を持っているのは「教育」と「日本のロック」と「日本の思想」だ!!


人と議論するのが好きなんですが、なんだかよく気持ち悪がられるので、インターネットを使って自分の考えに反発したり共感したりする人と意見交換したいなあと思ってるのだなあ。



それではブログはじめマシンガン㌢㍉㍉。