この時点で興味の無い方は、恐縮ではありますが今日の記事を読むには適しません。
今回は、それらのひねくれた音楽が好きだった私が何故今もさらにその気持ちを加速させているのかを考えました。
その加速度は、私がトーチカというバンドを振り返って考えたときに得られた「全能感」という(最近自分の中で流行っていた)言葉を理解したことで、さらに熱を帯びたのだとわかりました。
まだ産まれたてできちんとした体系も持っていない解釈なのですが、いかんせんブログの更新頻度が落ち気味であるので、備忘録的に一部ここに書き留めておこうと思います。
――――――――キリトリ――――――――
(中略)
強い人間と弱い人間の欠点を集めた人格を有していたことが、このバンドの特徴であります。
それは油断や無謀、はたまた臆病や逃避といったもの。
自分のアタマの強さを誇示する日陰者の被害者は、スピードをあげることに怯えながら、そのスピードで何もかもを振り切っていました。
つまるところ、このバンドは、どうしようもなく矛盾していたのです。
その矛盾とは、激しい劣等感と、その自分の劣等感は何者にも届かない(と信じる)優越感との間に生じるものです。
ここでは、優越感というより全能感と称した方が、より近いニュアンスが伝わるかもしれません。
あらゆる劣等感を激しい怒りの中で悲観的に認識し続けることで、まるで全ての人間の悲しみや汚さを知ったかのような高尚なふりをすること。
「おれが一番つらくて悲しいんだ、誰にも理解できないだろう。」
その全能感を得ることへの道筋は、私がトーチカの中に見い出した青春の一つです。
このバンドが本当にそんな性格を有していたのかは知りませんし、わかりません。
私は自分の歩いてきた人生と照れし合わせて一緒に考えることで、そのような全能感の得方を知り、また、そういった手法が見える音楽が自分はとても好きだということに気付いたのです。
――――――――キリトリ――――――――
今回私が言いたかったことは、
>強い人間と弱い人間の欠点を集めた人格を有していたことが、このバンドの特徴であります。
この一行にまとまっている気がします。
それが全てではないですが、なんというか、そういう感じがします。
自分でもなんでかはまだちゃんと考えていませんが、私はそういう矛盾した、あべこべな感じが、とても人間らしいのに人間離れしてる感じがして、なんだかかっこよく思えるのです。
これを読んでる方がそういう私の機微を少しでも「わかったかもしれない」という気分になってもらえればいいなあ、と思って、この記事を書きました。
眠いですのでこれで終わります。
――――――――超キリトリ――――――――
「ブログ楽しみ」っていう言葉が、私にとっては、愛してるとかあなたが必要ですとかそういう類の言葉の最上級に聞こえます。
そう言ってくれた方々に、ありがとうございますねー、とここで一言書きたいんや。
おわり