2011年11月9日水曜日

まだ続く僕の嫉みの話

前回の記事に引き続いて、あいつらについての話をしようと思う。

今回焦点を当てるのは、あいつらが世界を切り分ける様についてである。

前回の記事では、かなり感情的になってキーボードをたたきまくったから、あんまり読みやすくてわかりやすいとは言えなかったと思う。(あれはまじですぐ書けた)


あいつらは、主に容姿のレベルや、衣服のセンス、日常的なセックスの可否、そして一人で他者を批判しない心の有無で、人間を分ける。どんな小社会にでも、「3人以上」いれば、そこにコミュニティを作り上げる。
そのコミュニティの中では周囲(この周囲が互いを必ず認め合う「みんな」であることが重要) からの評価こそが生きるライセンスになるのだ。

そういう「みんな」となった者たちは、上でも下でもない、しかし確実にチガウところから、「みんな」でない者たちを見る。

たぶんそういう構造になっている。書くの疲れたからまとめる。


考え方や感じ方は色々ある。
主に「自分(myself)」と「全体(world)」  であり、どれだけ切り分けたって一つに包括されることを逃れることはできない。


彼らは、全てを一つに包括する体系を拒絶する。
だから私も、innner と outer を作りあげた。

私と彼らの間で決定的に違う部分は何か。

それは、自らを 内側(inner)におくか、外側(outer)に位置付けるかの違いである。

そして、自らを内側におく類の者たちが使う言葉は「みんな」であり、外側に位置付ける者たちは「自分」と、そのような言葉で自らを呼ぶのだ。

内と外ではどちらも互いに分断されている点では同じだが、私は絶対的に後者であるのだ。(ここで自身を後者に位置付けたことにも何かしらの意義があり、先から「位置づける」という言葉を以てして自らを説明することにもきっと意味がある)

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