2012年3月29日木曜日

小さい自分、醜い自分が許せない

いま、とてもつらい。


実際、ここの営業部にはかなり憧れていた。
かつ、1年目で営業部に配置(自分の場合は他部署から異動)されるのは過去に例がないことで、それが大いに自分への自信に繋がっている。

でも、数字と保身に狂った上長が一人いて、そいつに心を潰されかけている。



昨日は医者と、今日は人事と面談をした。


医者には、元いた部署への異動や、数週間単位の休暇を進められた。
また、精神科に通院することを勧められた。

どれも嫌だったので、拒否した。



人事には、医者と同じように、異動などの計らいができるかもしれない旨を伝えられた。

拒否した。

すごく優しかったけど、プライドがぎりぎりのところで涙を止めていた。

絶対に譲れないラインを引いて、それを越えないと判断した思いだけを慎重に打ち明けた。



最近、1カ月前くらいから、普段ほとんど話さないような方も含めて、色々な方が「最近元気ないね」とか聞いてくる。

普通だったら、久しぶりに会うわけでもない後輩に「元気か?」なんて聞かないし、それだけで今の俺が異常に見えていて、かつ俺のいないところでそういう風に言われているのがわかる。


情けない。守られている。
人から心遣いを貰う度に、情けなくて消えてしまいたくなる。

今まで、色んな人間に怒りを向けてきたけど、こんなにまで自分が許せなくなることはなかった。

2012年3月21日水曜日

優しさについて/どっかの誰かについて

人間が考えるべきことは、24時間365日決して変わらず、「次の瞬間、どうするか。」だけやと思ってた。

未来を見据えて素晴らしいモノに向かっていくのも、体を飲み込む悪いことから立ち直るのも、すべては「じゃあどうしようか」を考えて行動することから始まっていると思っていた。

もちろん、俺が今までずっと絶えずそういう風に生きてきたわけではない。そう思ってただけ。
ただ、なんか違う気がしてきた。


うずくまって泣いてる人はこれからどうしようかとか考える余裕はないのかもしれんし、どうしようもないくらい過去が喉に引っかかって新しい空気が取り入れられないのかもしれない。

なんかそこでこうすればいい、どうしたらいいっていうことを考えて、導くのは果たしてどうなのか。


俺は、俺自身が過去を引きずってずるずると意味のないことをたくさんしていることに目を瞑っていた。
なぜなら、一通りウジウジした後に、「よし、じゃあ次はどうしよう」と考えられてたから、俺は大丈夫だと思っていたからだ。

大丈夫ではない。その"一通りのウジウジ"が不十分だから、何度も何度も蘇り、蝕むのだ。

俺は、過去のことを思い出して何もできなくなるのを、花粉症やそこらの病気のように取り除くことができずに周期的に発生する、「我慢の期間」やと思ってた。


優しさっていうのは、「じゃあどうするか一緒に考えよう」というだけのことではない。
相手の問題解決を目指して先のことを考えることの比重を下げに下げて、誰かの昔のこととかに全神経を集中させられるということでもあるのだと思った。

すごく難しくて、また書くことが恥ずかしい問題である。

-------------------------------ダッセン-------------------------------

俺は未熟だし、本をたくさん読めない。
きっとこういう優しさについてのことも、いつかのどっかの誰かが、すでにとっくの昔に思ってるんだろう。
そして何ならば体系的にまとめて本にでもしているんだろうか。日本語訳はされてるんだろうか。


早く、その「どっかの昔に誰かがやってるだろう」への失望感とか無力感とか、そういうのに対抗する方法を知りたい。

23年しか生きてない俺にとって、人間の生きてきた過去だけですら、途方もなく感じる。

宇宙の過去とか未来とかについて破滅的なことを考えだすと、自分の感じることや考えることすべてに意味が無くなって怖い。
「どっかの誰かが」を考えるときに感じることは、そういう感覚に似ている。


もう少し年を重ねたら、どっかの誰かが自分の代わりに自分がやるべきだったことをしていることに対して許容というか、きちんと受け止められるようになるのだろうか。


世間一般に初恋は叶わないものというが、それならば、この世の誰かの初恋の相手は、そのほとんどが別の他の誰かと恋をするということだ。

そういう悲劇的な事柄がたくさんあると思う。

いちいち腸に熱を宿しているのもどうなのか。

考えたい。


こういうことばかりを考えてていいのかどうかも考えたい。

体系的にはまとまらない。けど、それはいいや。

2012年3月18日日曜日

肚は空っぽ

時間、戻らへんかなあ。

自分の行いのすべてが間違っている。

やさしくなりたいとか言いながら、なんだろう、意思とは別のとこで俺のせい。

ごめんなさい。

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田中慎弥『共喰い』を読んだ。

芥川賞受賞作が2つとも載ってる文藝春秋を買ったのはずっと前で、でもなんとなく読む気がしなかった。

作品の評判とかあらすじは知らないで手に取った。


掲載ページに辿り着いて読み始めたときは、描写の鬱陶しさに、勘弁してくれという気持ちになった。

この物語は、非日常的な性描写と、人間の肉体の醜さや陰鬱さに塗れて進んで行き、そのまま終わるのであろうことがぼやぁっとわかっていく感覚に、嫌気が差した。

読み始めて1分かそこらで、数ページ送って目を紙面に走らせると、セックスという文字が一瞬見えた。これで期待をせずに済むので、僅かながら安心して読むことに戻れた。



一つ特徴的だったのは、川辺という地域について執拗に繰り返される描写だった。
田舎独特の、永遠に夏が続いていくあの感覚をとても強く感じた。


正直、自分はどんな作品でも、暴力やセックスの場面は好かない。
人間の悪い部分ばかりを抉り出し、また自分自身の悪癖を高らかに掲げる類の心理描写も好かない。


でも、そういう失望感や違和感を気づかない内に吹き飛ばすほど、自分は川辺という地域にどっぷりと引き込まれていった。
そのことに気付いたのは 、捲った先のページに「道化師の蝶」というもう一つの芥川賞受賞作の題字を見たその後だった。

確かに物語は俺を引き込み、ありありと浮かぶ情景は、強烈な印象を俺の中に残した。

だがそれだけだった
読んでいて楽しくなかった。

きっと、強烈な印象はすぐに消えていくし、俺の精神には何の影響も残さないと思う。

そういう感想を持った。