2011年3月31日木曜日

恐怖!毒人間のクスリ屋さんが僕の頬を優しくなぞる拒絶作用その光悦にまつわるアレとコレ

「○○な男」や「○○な女」のホンネを把握し、自らに都合よく操ることを目的とした俗物心理学のTV番組や本が溢れかえっています。

その裏には大衆の嗜好をCMや情報扇動で管理することの難しくなったマスコミや汚く肥えたやつらの意図やなんかがあるかもしれませんが、私の今日の話はそういう陰謀論を突っ込むことではありません。


結局”○○男子”などというやり方で一様に人物をくくるのは『偏見』です。

こんな無理やり作られたような言葉に興味はありませんが、『偏見』というものの作用や使い方には私自身とても関心があり、考えることも多いので、今日はそれについてまとめようと思います。

――――――――キリトリ――――――――

最初に、『偏見』とは、ある人間に対して少ない接触で「自分に合うか・合わないか」を判別するためのスキルだと私は考えています。

太った人には良い人が多い――いや自分はそう思わない。

嫌いなタイプの顔だなあ――この顔はタイプだけど気が強い子が多い。


などなどあげていけばキリがありませんが、人はそれぞれの人生経験から見出した各々の偏見を持っていることと思います。
全員が意識している当たり前のものなのですが、今一度その意義について見直してみましょう。



人間は学習する生き物であり、過去の経験・歴史の失敗と成功から何かを学び取り自身の生き方をよりよくしようと葛藤します。


その中でも最も身近で最も対人関係の形成に特化した学習機能が『偏見』なのです。

(嫌な思い出かもしれませんが)自分が危害を加えられた人間の顔や性格、声や話し方を思い出してください。
例えばそのどれか一つでもとてもよく似た要素を持った人を見たとき、あなたはどう思うでしょうか?
よほどのお人よしでなければ「苦手なタイプの人」と処理し、積極的な関わりを避けるのではさいでしょうか。

また、自分の友人や昔よく関わった人なんかによく似た考え方や特徴をもった人と新しく出会ったとしましょう。
きっとそういう人とはすぐ仲良くなれるはずです。
それは偏見により、どういう話をどれくらいの表情・距離感で話せば「こういうタイプの人」と一緒に楽しめるかが自ずと知れているからです。

それこそが偏見の意義なのです。


初めて会った人間でも、どう接するべきかある程度の目安をもって臨めること。
そして今の知人にもより円滑な関係を気付くための接し方に切り替えられること。

それらは全てあなたの築き上げて、塗り重ねてきた偏見によってもたらされた恩恵なのです。
偏見とは人の噂話やあるあるネタを話すときだけの為に存在するのではありません。

ものには有効な使い方があり、要はそれに気づけるかどうかだと思うのです。

――――――――キリトリ――――――――

また、偏見には定期的な点検が必要です。

「人は見かけによらない」という言い方があるように、自分の抱いた第一印象や偏見と、相対する人間の実際の人物像が異なる場合はもちろんあります。


その言葉を思い出したときこそが、自分の偏見を調整すべき瞬間なのです。


実験や統計調査において例外・異端値は貴重な情報であり、何より人間と言う不安定なものを相手にしたこの偏見作りにおいては決して看過すべきでない重要な要素となります。


もしあなたがある印象を抱いた誰かに会って深く言葉を交わし、自分の偏見との差を感じたら、そのときは速やかに偏見を再構成してください。


偏見の調整の際に気をつけなければいけないのは、過去に身知った例となる人間たちと今自分が相対している、さっき会話をした人とで「何が違うのか」。
その相違点を徹底的に洗い出し、違う理由を突きとめることです。


――所属した部活が文科系だった。
――家が裕福だった。
――趣味がこういうタイプの人に多いものだった。

など、細かくとも自己流の判断でも、とにかく考え付くだけの違う理由を考えてみましょう。
思いついたら、それを今まで自分が抱いていた偏見に関連付けて、もう一度練り直してください。



繰り返しになりますが、偏見とは学習プロセスのことであり、歳月を重ねて経験を積み、多くの人に出会い関わるほどにより正確なものに近付いていきます。

決して「情報量が増える」のではなく、「正確になる」のだと覚えておいてください。

人は多くの側面を持ち、善悪の区別をつけることは一般には困難ですが、過去の経験から、自分との相性くらいはわかってもいいのではないでしょうか。

――――――――キリトリ――――――――

いくつか前の記事で「自分自身を簡潔な言葉で言い表すのは、可能性の拡がりを妨げる」という趣旨のことを書きました。

これは24時間ともに生き、止まらない成長を感じ、また促し続ける自分自身にだからこそ言えることで、所詮一日のうち数時間、一年のうち数ヶ月間しか共に時間を過ごさない友人や仕事仲間については、ある程度の偏見に当てはめて考えてみても良いと思います。

しかし、多くの時間を過ごし、また内面の奥深くまで心を通わせる恋人、家族に対してはどうでしょうか。

――――――――キリトリ――――――――

よく生きるには、普段の知識や慣習について見直してみることが大事だよって話でした。


何も考えずに生きるっていうのは罪だと思うよ。

「ボタン押したら知らん間に出来てた」を何も考えずに受け入れて生きることの虚しさ間抜けさ意味の無さはすさまじい。

おしまい。

2011年3月23日水曜日

ポリ袋にちゅめて

引っ越しとか地震とか、バイトの最期とか色んなことがありまして


今おれの部屋は最高に散らかっている。

でもそれは散らかっているのであって、汚いけど汚れてはいない。

部屋の状態は心を映すとか言うが、それなら俺の心は散らかってるけど汚れてはいないのだなあ。


そういう感じのことをぶつぶつ言いながら、昔の物を捨てたり置き場所を変えたりしてる。

 それらは小っさい頃の思い出を思い出させてくれると同時にものすごい埃で俺の眼と鼻の機能を奪いやがる。アレルギーと親知らずと盲腸は人体から排除するべきやでしかし。


一つ気付いたんやけど、小学校と高校にまつわる物は結構保管してても、中学校の時の物が圧倒的に少ない。卒業アルバムすら見当たらないぜ。

かの人格破壊期間で喰らったダメージはどんどん回復していますので、僕は4月から頑張れそうです。
最近になってプラス思考と言うか、ポジティブな考えのことをどんどん言うことに引け目も恥もあんまり感じなく

いや、引け目も恥も感じてはいるけど、そんなくだらんもんは許容することが出来ています。



最近の僕の思想の流行りは、自分の安心や満足や恥や不快感などというものを排して物事を捉える事です。

とても難しいので1/10すら実践出来ていませんが、飽きたり考え直すまではこのまま生きます。

なぜならこの思想、他人にものすごく優しい気がする。

――――――――キリトリ――――――――

最高に優しい人っていうのは、人の嫌がることや言われたくない部分を知っているので、心掛け一つで最悪に有害な人間にもなれるはず。

という感じのことを考えたので、僕も心掛け一つでアカンとこを一発逆転する術が無いか模索中です。



そしてまた日常生活がおろそかになるので、あと3~4日でいなくなる部屋が寝るとこ無いくらい散らかっています。

おわり。

2011年3月5日土曜日

横線二本に掛ける橋

近頃はソーシャルメディアが広まりすぎて、ただの暇つぶしや自己顕示にしかそれを利用しない輩が増えて来ましたね。

人との接触というのは、繋がりの安心や満足を得るだけではなくてもっと大切な価値に気づいたり発見させてくれる作用があると私は信じています。

しかし影響力の強い人とのコミュニケーションは刺激が多い分、自分を見失いやすくもなるので、度々自身の思想について確認することも大切です。


今回はそこで用いる『自己言及』という行為の忌まわしい作用について書きまくります。

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さて、自己言及の恐ろしさはその枠組み形成機能にあります。

「僕はこういう性格の人間です」
「あたしはこれしかできないから」

自分自身についてよくこういう言い方で語る人がいます。

ときには、
「私はわがままだからね」

と、自らの欠点を自分でわかっていると言いながらその改善に乗り出さないと宣言する者もいます。

多くの場合、自分の欠点を自分で分析することで満足してしまい、本当に悪い自分の性質には気づいていない場合がほとんどです。

人は他人に自分を紹介するときに、所属組織や生まれや星座や血液型を用いて自らのキャラクターをある程度の型にはめることで、簡単に短いキーワードだけで人となりを説明することが出来ます。

それらの項目は具体的で、また広く社会に認められている言わば"確実な"アイデンティティの要素であります。


今日の文章で批判するのは、文頭に取り上げた様な、"自分自身の内面に対する"自己言及です。


人間の思い込みというのはその人の意識下・無意識下において強い拘束力を持つものです。

そして先に述べた内面への自己言及は、人付き合いなどの際の行動選択を簡易にする為に、自らについての先入観を形成する機能を持ちます。

自分で造った言葉で自分を表現したそのイメージはとても強く脳裏に焼き付き、現実の姿にもその影響の手を伸ばすことでしょう。

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さて、これはとてももったいないことではないでしょうか?

よくある言い方ですが、一人の人間には本当に限りない可能性が存在し、日常の思い込みや常識を覆すことで思いも寄らない行動を起こし想像以上の結果を掴むことが出来ます。

そこに立ちはだかる偏見や先入観は、往々にして私たちの歩みを止めて、環境の変化に対して悲観的な気持ちを形成させます。


↑に取り上げたような "自分で自分の特徴を語って完結する" タイプの自己言及を「=型」とするならば、私が強く勧めるのは「≠型」の自己言及です。

自分の尺度や社会的な尺度で判断し、世界や自分や好きな人たちの "為にならない" と感じた事柄に対し、「自分はそうではない」と語ることが「≠型」の自己言及だと言えます。


私はこのブログやTwitterなどで、自分のおかしいと思う慣習や人間の行動を強く根拠づけて批判するのですが、それはこの自己言及のプロセスの一部となる行動です。


この自己言及はただ一つの正解を導く為には相当な遠回りだと言えます。

しかし回り道には往々にして思いも寄らぬ発見があり、それが決して完全に無駄なものではないことは、皆さん共通の認識でしょう。

x=1
x≠1

斜線一本あるかないかで、変数xのとりうる可能性の大きさは全く異なってくるのはお分かりでしょう。

果たして一人の人間が困難に陥ったときにとりうる値(選択)は一通りのみでしょうか。
そのときのあなたの思考パターンは1パターンのみなのでしょうか。

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次に注意しなければならないのは、≠の向こうに置く値の吟味です。


例えば「人を殺してはいけない」「やりもせずに諦めてはいけない」など、一般的に言われてるものの他にも、きっとあなたは自分自身で大事なことをたくさん見つけるでしょう。

しかしそこで、「外国は危ないから行ってはいけない」「お金を無駄にしてはいけない」などのことはどうでしょうか。

どこかに行かないと決めてかかるのは行動の幅を狭めることに繋がりますし、お金に関しても「無駄」の範疇次第では思い切った一歩が踏み出せない原因にもなります。

むやみにあれも嫌いこれも嫌い!と叫んでいては、本来可能性を広げるためのこの自己言及が逆効果となり、
本末転倒の結果になります。

自分はなぜそれをおかしいと思うのか、しっかり説明できるようにすること。

また、あわよくばそれについて他人と議論してみて、ただの思いつきでなく本当に揺るがない思想だと確認することが大切です。

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わたしは前までこの手法を誤った使い方で乱用していました。

そのときに自分の周りに作ってしまった要らぬ盾や壁を探して壊すことに今でも必死です。


ですが、後悔はしていません。

わたしは自身のこの『能動的な拒絶』を誇りにも思っています。


おしまい。