2011年3月5日土曜日

横線二本に掛ける橋

近頃はソーシャルメディアが広まりすぎて、ただの暇つぶしや自己顕示にしかそれを利用しない輩が増えて来ましたね。

人との接触というのは、繋がりの安心や満足を得るだけではなくてもっと大切な価値に気づいたり発見させてくれる作用があると私は信じています。

しかし影響力の強い人とのコミュニケーションは刺激が多い分、自分を見失いやすくもなるので、度々自身の思想について確認することも大切です。


今回はそこで用いる『自己言及』という行為の忌まわしい作用について書きまくります。

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さて、自己言及の恐ろしさはその枠組み形成機能にあります。

「僕はこういう性格の人間です」
「あたしはこれしかできないから」

自分自身についてよくこういう言い方で語る人がいます。

ときには、
「私はわがままだからね」

と、自らの欠点を自分でわかっていると言いながらその改善に乗り出さないと宣言する者もいます。

多くの場合、自分の欠点を自分で分析することで満足してしまい、本当に悪い自分の性質には気づいていない場合がほとんどです。

人は他人に自分を紹介するときに、所属組織や生まれや星座や血液型を用いて自らのキャラクターをある程度の型にはめることで、簡単に短いキーワードだけで人となりを説明することが出来ます。

それらの項目は具体的で、また広く社会に認められている言わば"確実な"アイデンティティの要素であります。


今日の文章で批判するのは、文頭に取り上げた様な、"自分自身の内面に対する"自己言及です。


人間の思い込みというのはその人の意識下・無意識下において強い拘束力を持つものです。

そして先に述べた内面への自己言及は、人付き合いなどの際の行動選択を簡易にする為に、自らについての先入観を形成する機能を持ちます。

自分で造った言葉で自分を表現したそのイメージはとても強く脳裏に焼き付き、現実の姿にもその影響の手を伸ばすことでしょう。

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さて、これはとてももったいないことではないでしょうか?

よくある言い方ですが、一人の人間には本当に限りない可能性が存在し、日常の思い込みや常識を覆すことで思いも寄らない行動を起こし想像以上の結果を掴むことが出来ます。

そこに立ちはだかる偏見や先入観は、往々にして私たちの歩みを止めて、環境の変化に対して悲観的な気持ちを形成させます。


↑に取り上げたような "自分で自分の特徴を語って完結する" タイプの自己言及を「=型」とするならば、私が強く勧めるのは「≠型」の自己言及です。

自分の尺度や社会的な尺度で判断し、世界や自分や好きな人たちの "為にならない" と感じた事柄に対し、「自分はそうではない」と語ることが「≠型」の自己言及だと言えます。


私はこのブログやTwitterなどで、自分のおかしいと思う慣習や人間の行動を強く根拠づけて批判するのですが、それはこの自己言及のプロセスの一部となる行動です。


この自己言及はただ一つの正解を導く為には相当な遠回りだと言えます。

しかし回り道には往々にして思いも寄らぬ発見があり、それが決して完全に無駄なものではないことは、皆さん共通の認識でしょう。

x=1
x≠1

斜線一本あるかないかで、変数xのとりうる可能性の大きさは全く異なってくるのはお分かりでしょう。

果たして一人の人間が困難に陥ったときにとりうる値(選択)は一通りのみでしょうか。
そのときのあなたの思考パターンは1パターンのみなのでしょうか。

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次に注意しなければならないのは、≠の向こうに置く値の吟味です。


例えば「人を殺してはいけない」「やりもせずに諦めてはいけない」など、一般的に言われてるものの他にも、きっとあなたは自分自身で大事なことをたくさん見つけるでしょう。

しかしそこで、「外国は危ないから行ってはいけない」「お金を無駄にしてはいけない」などのことはどうでしょうか。

どこかに行かないと決めてかかるのは行動の幅を狭めることに繋がりますし、お金に関しても「無駄」の範疇次第では思い切った一歩が踏み出せない原因にもなります。

むやみにあれも嫌いこれも嫌い!と叫んでいては、本来可能性を広げるためのこの自己言及が逆効果となり、
本末転倒の結果になります。

自分はなぜそれをおかしいと思うのか、しっかり説明できるようにすること。

また、あわよくばそれについて他人と議論してみて、ただの思いつきでなく本当に揺るがない思想だと確認することが大切です。

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わたしは前までこの手法を誤った使い方で乱用していました。

そのときに自分の周りに作ってしまった要らぬ盾や壁を探して壊すことに今でも必死です。


ですが、後悔はしていません。

わたしは自身のこの『能動的な拒絶』を誇りにも思っています。


おしまい。

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