2011年11月26日土曜日

学びて思わざればすなわち罔し、について

「努力の人」とか「成功者」とかいうキャッチコピーは最近あまりみないが、先駆者的な役割をかつて(今も)果した(ている)人達の話というのは中々に価値があるものだと思う。

だが、そういった人達がスタートラインから一つの目的に向けて走ってきたかどうかは危ういということにも気付いていないといけないと思う。インタビューや講演というのは、少なからず商業用に加工された言葉をもって構成された、一連の創作だからである。
「『○○になりたい』という目的をしっかりもってやり続けてきた」と、今になって語るのは、いわば後だしである。
何十年前、その講演者が若かりし頃。グングンと栄養を吸い、学び、考え、経験し、成長を続けていた頃。
そのときから、彼は既に目標・目的を明示的な言葉で固め、自身の未来に向けて据えていたのであろうか。私はそうは思わない。

目的を達成し、まさに次世代の人間たちの先達となるために自分自身の経験を惜しみなく語ってくれるその人は、語るに連れて気付かぬうちに言葉に囚われ、過去の自分の脳内を急激に現在の状態まで成長させたという錯覚に陥っているのだ。
今になって雄弁に自身の成功や挫折を語る彼が、まさにがむしゃらに走り続けているかつてのときから、今振り返って思われる『人生の目標』をくっきりと浮かばせていたとは考えられない。それは「がむしゃら」ではない。

きっと、言葉にならない願望や感情の断片が、数多の粒子状になったものが当時の彼の頭の中を揺れ動いていたのだと思う。
ときにそれらは結集し、一つの具体的な像のような姿を成したかもしれない。
ときにそれらは霧散し、彼の眼を曇らせ眩ませるだけの濃霧にもなったかもしれない。
しかし、ときたまチラつく幻のような自分の真意を認識し、直観を追い続けることができるのであれば、きっと何年後・何十年後に、粒子は増え、密度を増し、やがてくっきりとした像を成すのだと思われる。
時が経った彼らはその像を認識することで、あたかも若かりし自分はずっと前からその像を知覚しており、それだけを追い求めた健気な青年だったと、過去を振り返るのだ。
それだけではない。もしかすると、彼は過去を思い出して語ることで、その当時認識し得なかった自分の真意をはっきりと認識しているのかもしれない。
もしそうであれば、彼にとっては素晴らしいことである。
だが、素晴らしいとは言え、今を走る若輩者たちにその知覚された経験を差し出すのは残酷だと言わざるを得ない。
なぜなら、彼が差し出す『俺は20歳の頃こうだった』『君等も20歳のときはこうすると良い』は、本当は数十年分の経験を上乗せした後、多少薄めることで作られた「架空の20歳」だからである。
そして、若者がその真似をして自分をしっかり知覚しようとしたところで、得られる現実の像の持つ力はたかが知れている。

先達の語るかつての20歳と、生きる自分の20歳を比べて思うのだ。『僕は無力だ』と。
私たちは、先達が優しさで示し出す幻の若者なんかに、惑わされてはならないのだ。


おわり。

0 件のコメント:

コメントを投稿