2013年4月28日日曜日

4月28日(2)

去年の4月28日から今まで、ブログを見てみようとか何か書いてみようとか、思ったことは何回かありましたが、何と無く行動には移してきませんでした。

でも、今日は行動したくなるレベルまで好奇心がむくっと芽生えて伸びてきたので、この「ちょうど一年」という面白い偶然を味わうことができました。

「ふと思い立ったら」という好奇心の芽生えは、大事にしたいと思います。
また、その探求のための行動は、どんどんやってやろうとも思います。
面白いことにたくさん触れられるし、行動が意味を持ったと思えば、気持ちが上を向いて、自信がつく気もします。

そういうことを思いました。

4月28日

ふと思い立ってこのブログを久しぶりに覗いてみると、ちょうど一年間、何も投稿していなかったことに気づきました。

面白い偶然を感じて昔の投稿を見返してみたのですが、なんとも読みにくく、粋がったグラグラの文章で、とても恥ずかしい気持ちになりました。

時間が経ち、少しは成長したと思うので、人生のこととかちゃんと書いて行こうと思います。

2012年4月28日土曜日

タイトルはいらない

あう。


認め合い、許し合い、慰め合い、殺し合う。


「調和」は、生きることに必須のテーマである。

他の存在と自己とを交わらせること。
損傷のもととなるような種類の刺激を排し、また互いの利益、価値の向上のために、互いを利用し、また積極的に利用される。

それは人間のみならず、社会から切り離された自然界の動植物も等しく参加する一つの世界である。


調和には、効用がある。参加者や目的に応じて、多種多様な効用がある。

それらを限りなく暴力的な抽象化によって数を減らし、また言語として概念化すると、以下のように言える。

それは、調和の参加者の「負を殺し」、また「正を生かす」ことである。



調和によって負を殺すことは、困難ではない。
先に述べたような、互いを損傷させないような、配慮をもってして調和に臨むことが実現である。

行動を起こさず、他に従うという受動的でエネルギーを消費しない選択をもってして実現されるこの効用は、強い評価の対象とはならない。それは、僅かな調和さえあれば、いわば空気のように当たり前に存在し始める効用だからである。

もちろん、自己の存続が危ぶまれるような多大な不利益の中で、調和によって負を緩和しようという能動的な試みや、またそうでない状況下での能動的な調和による定常的な負の回避は、いつどこででも行われているところのものである。


だが、その別の側面である、正を生かすことこそが、調和の目的ではないかと考える。

複数の事物の間で正を生かすことは、エネルギーを消費する必要がある。

自己の発露を隠すことで負の接触を軽減し、それを殺すこととは異なり、正を生かすためには自己を他に向けて発露する必要があるからだ。

自身の目的を露わにし、行動を起こす。降るのを待つのではなく、求める必要があるのだ。


まずは、ぶつかること。
目的を持ち、眼前の対象をきちんと認識し、自分から近づくこと。

次に、影響を与え合うこと。
対象に自身を作用させて、また対象からの作用を受け、それを認識すること。

そして、それらを何度も繰り返すこと。
意思を持ち、互いの影響から起こるであろう変化に順応しながらも、終わらずに存在し続けることである。


つまり、調和とは、優しさや謙虚さで言い表される状態のことではなく、その過程にほぼ確実に対立を含む、複数の事物がなす行動なのである。

均衡し、安定し、静止している状態のみを調和とは言わない。

調和とは、摩擦を起こし、変化し、かつ循環する行動でもあるのだ。



調和には、目的地はない。ただあるのは、そこに達すると二度と再会することはできなくなる、終着点だけである。

一人の人間も、また歴史そのものも、何度も調和を繰り返し、続けて、そして終わらせてきた。

目的を達成する調和のために行うべきは、学ぶことや要領よく立ち回ることではなく、また力をつけ、ねじ伏せることでもないと思う。

正しいことはわからない。

だが、認識することは、現時点では正しいことに近いと、私は考える。


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イメージを言葉にすることは、イメージを言葉に閉じ込めることだ。

広がりがなくなってしまうし、自己の外側で形にしてしまった安心感から、そのイメージを忘れやすくなってしまう。


だから、イメージは、生き方に溶かし込んでいく方が大事だと、最近思うようになった。

それはつまり、自分の思い考えることと、生きることとを、調和させていくということだ。

簡単なことではないと思う。

だからこの文章を書いた。

思い、考えることは、紙の上に散らすためにしているんじゃない。

だけど、こうして言葉にし、忘れずに、また変えていくことをしていけばよいのだと、思う。

風立ちぬ

俯瞰。


1年間を通して、自分が知らない街で生きてきたことで、色々と知らないことを知った。


そうやって知覚範囲が拡大するほどに認識は圧縮されていき、昔大事だったことは思い出にタグ付けされ、重要ではなくなる。

それは、道を歩くときに草影に虫を見つけるという体験がなくなったことからもわかる。


そしてまた、何に危機感を覚えているのか。

それは、アウトプットができないことである。
時間軸ではとても短い、その日の出来事やいらついたこと、面白かった体験しか口をついて出てこない。

もはや、自分が考えうることなんてないんじゃないか。
という風にも思う。

生活はうまいこといっている。
願望もある。だがいかんせん、ものを知らない。

キーボードと脳を直結させている。

見えるのは読みかけの本とCDと、折り畳み傘と通帳とたくさんのペットボトル。

こういうものがどんどんと俺から何かをはがしていって、ごみ袋の中に連れて行ってしまう。

はがしていくというイメージは的確かもしれない。

生活物としてひとくくりにしていいかわからんけど、何も考えずに使っていると、少しずつはがされていく気がする。


精神が押しつぶされていた状態からはすっかり復活したので、次のステップにきた。

このむらむらした感じを、行動か言語か何かでショウカしたいな。
「しょうか」って良い漢字がいっぱいありますね。


おわり。

2012年4月2日月曜日

自分でやる。

昨日は京都に帰って昔のバイト先だった塾の懇親会に行ってきた。

楽しかった。生徒の近況聞くのが一番楽しい。

今日は実家で寝てるだけやった。
さっき帰ってきた。


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助けてくれるものが無い状況で、明日も仕事に行く。


恥ずかしげもなく人に相談したり愚痴を言ってたらましになってきた。


それでも夜は不安で寝つけない。

閉じて、抑えて、塞いで、誰にも何も期待してはならないと肝に銘じて、
明日になってもどうにもならないことを知って、私は自慢の強い心を奮い立たせます。


ブログが自分にわからせるためのものになってきた。

2012年3月29日木曜日

小さい自分、醜い自分が許せない

いま、とてもつらい。


実際、ここの営業部にはかなり憧れていた。
かつ、1年目で営業部に配置(自分の場合は他部署から異動)されるのは過去に例がないことで、それが大いに自分への自信に繋がっている。

でも、数字と保身に狂った上長が一人いて、そいつに心を潰されかけている。



昨日は医者と、今日は人事と面談をした。


医者には、元いた部署への異動や、数週間単位の休暇を進められた。
また、精神科に通院することを勧められた。

どれも嫌だったので、拒否した。



人事には、医者と同じように、異動などの計らいができるかもしれない旨を伝えられた。

拒否した。

すごく優しかったけど、プライドがぎりぎりのところで涙を止めていた。

絶対に譲れないラインを引いて、それを越えないと判断した思いだけを慎重に打ち明けた。



最近、1カ月前くらいから、普段ほとんど話さないような方も含めて、色々な方が「最近元気ないね」とか聞いてくる。

普通だったら、久しぶりに会うわけでもない後輩に「元気か?」なんて聞かないし、それだけで今の俺が異常に見えていて、かつ俺のいないところでそういう風に言われているのがわかる。


情けない。守られている。
人から心遣いを貰う度に、情けなくて消えてしまいたくなる。

今まで、色んな人間に怒りを向けてきたけど、こんなにまで自分が許せなくなることはなかった。

2012年3月21日水曜日

優しさについて/どっかの誰かについて

人間が考えるべきことは、24時間365日決して変わらず、「次の瞬間、どうするか。」だけやと思ってた。

未来を見据えて素晴らしいモノに向かっていくのも、体を飲み込む悪いことから立ち直るのも、すべては「じゃあどうしようか」を考えて行動することから始まっていると思っていた。

もちろん、俺が今までずっと絶えずそういう風に生きてきたわけではない。そう思ってただけ。
ただ、なんか違う気がしてきた。


うずくまって泣いてる人はこれからどうしようかとか考える余裕はないのかもしれんし、どうしようもないくらい過去が喉に引っかかって新しい空気が取り入れられないのかもしれない。

なんかそこでこうすればいい、どうしたらいいっていうことを考えて、導くのは果たしてどうなのか。


俺は、俺自身が過去を引きずってずるずると意味のないことをたくさんしていることに目を瞑っていた。
なぜなら、一通りウジウジした後に、「よし、じゃあ次はどうしよう」と考えられてたから、俺は大丈夫だと思っていたからだ。

大丈夫ではない。その"一通りのウジウジ"が不十分だから、何度も何度も蘇り、蝕むのだ。

俺は、過去のことを思い出して何もできなくなるのを、花粉症やそこらの病気のように取り除くことができずに周期的に発生する、「我慢の期間」やと思ってた。


優しさっていうのは、「じゃあどうするか一緒に考えよう」というだけのことではない。
相手の問題解決を目指して先のことを考えることの比重を下げに下げて、誰かの昔のこととかに全神経を集中させられるということでもあるのだと思った。

すごく難しくて、また書くことが恥ずかしい問題である。

-------------------------------ダッセン-------------------------------

俺は未熟だし、本をたくさん読めない。
きっとこういう優しさについてのことも、いつかのどっかの誰かが、すでにとっくの昔に思ってるんだろう。
そして何ならば体系的にまとめて本にでもしているんだろうか。日本語訳はされてるんだろうか。


早く、その「どっかの昔に誰かがやってるだろう」への失望感とか無力感とか、そういうのに対抗する方法を知りたい。

23年しか生きてない俺にとって、人間の生きてきた過去だけですら、途方もなく感じる。

宇宙の過去とか未来とかについて破滅的なことを考えだすと、自分の感じることや考えることすべてに意味が無くなって怖い。
「どっかの誰かが」を考えるときに感じることは、そういう感覚に似ている。


もう少し年を重ねたら、どっかの誰かが自分の代わりに自分がやるべきだったことをしていることに対して許容というか、きちんと受け止められるようになるのだろうか。


世間一般に初恋は叶わないものというが、それならば、この世の誰かの初恋の相手は、そのほとんどが別の他の誰かと恋をするということだ。

そういう悲劇的な事柄がたくさんあると思う。

いちいち腸に熱を宿しているのもどうなのか。

考えたい。


こういうことばかりを考えてていいのかどうかも考えたい。

体系的にはまとまらない。けど、それはいいや。