2013年4月28日日曜日

4月28日(2)

去年の4月28日から今まで、ブログを見てみようとか何か書いてみようとか、思ったことは何回かありましたが、何と無く行動には移してきませんでした。

でも、今日は行動したくなるレベルまで好奇心がむくっと芽生えて伸びてきたので、この「ちょうど一年」という面白い偶然を味わうことができました。

「ふと思い立ったら」という好奇心の芽生えは、大事にしたいと思います。
また、その探求のための行動は、どんどんやってやろうとも思います。
面白いことにたくさん触れられるし、行動が意味を持ったと思えば、気持ちが上を向いて、自信がつく気もします。

そういうことを思いました。

4月28日

ふと思い立ってこのブログを久しぶりに覗いてみると、ちょうど一年間、何も投稿していなかったことに気づきました。

面白い偶然を感じて昔の投稿を見返してみたのですが、なんとも読みにくく、粋がったグラグラの文章で、とても恥ずかしい気持ちになりました。

時間が経ち、少しは成長したと思うので、人生のこととかちゃんと書いて行こうと思います。

2012年4月28日土曜日

タイトルはいらない

あう。


認め合い、許し合い、慰め合い、殺し合う。


「調和」は、生きることに必須のテーマである。

他の存在と自己とを交わらせること。
損傷のもととなるような種類の刺激を排し、また互いの利益、価値の向上のために、互いを利用し、また積極的に利用される。

それは人間のみならず、社会から切り離された自然界の動植物も等しく参加する一つの世界である。


調和には、効用がある。参加者や目的に応じて、多種多様な効用がある。

それらを限りなく暴力的な抽象化によって数を減らし、また言語として概念化すると、以下のように言える。

それは、調和の参加者の「負を殺し」、また「正を生かす」ことである。



調和によって負を殺すことは、困難ではない。
先に述べたような、互いを損傷させないような、配慮をもってして調和に臨むことが実現である。

行動を起こさず、他に従うという受動的でエネルギーを消費しない選択をもってして実現されるこの効用は、強い評価の対象とはならない。それは、僅かな調和さえあれば、いわば空気のように当たり前に存在し始める効用だからである。

もちろん、自己の存続が危ぶまれるような多大な不利益の中で、調和によって負を緩和しようという能動的な試みや、またそうでない状況下での能動的な調和による定常的な負の回避は、いつどこででも行われているところのものである。


だが、その別の側面である、正を生かすことこそが、調和の目的ではないかと考える。

複数の事物の間で正を生かすことは、エネルギーを消費する必要がある。

自己の発露を隠すことで負の接触を軽減し、それを殺すこととは異なり、正を生かすためには自己を他に向けて発露する必要があるからだ。

自身の目的を露わにし、行動を起こす。降るのを待つのではなく、求める必要があるのだ。


まずは、ぶつかること。
目的を持ち、眼前の対象をきちんと認識し、自分から近づくこと。

次に、影響を与え合うこと。
対象に自身を作用させて、また対象からの作用を受け、それを認識すること。

そして、それらを何度も繰り返すこと。
意思を持ち、互いの影響から起こるであろう変化に順応しながらも、終わらずに存在し続けることである。


つまり、調和とは、優しさや謙虚さで言い表される状態のことではなく、その過程にほぼ確実に対立を含む、複数の事物がなす行動なのである。

均衡し、安定し、静止している状態のみを調和とは言わない。

調和とは、摩擦を起こし、変化し、かつ循環する行動でもあるのだ。



調和には、目的地はない。ただあるのは、そこに達すると二度と再会することはできなくなる、終着点だけである。

一人の人間も、また歴史そのものも、何度も調和を繰り返し、続けて、そして終わらせてきた。

目的を達成する調和のために行うべきは、学ぶことや要領よく立ち回ることではなく、また力をつけ、ねじ伏せることでもないと思う。

正しいことはわからない。

だが、認識することは、現時点では正しいことに近いと、私は考える。


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イメージを言葉にすることは、イメージを言葉に閉じ込めることだ。

広がりがなくなってしまうし、自己の外側で形にしてしまった安心感から、そのイメージを忘れやすくなってしまう。


だから、イメージは、生き方に溶かし込んでいく方が大事だと、最近思うようになった。

それはつまり、自分の思い考えることと、生きることとを、調和させていくということだ。

簡単なことではないと思う。

だからこの文章を書いた。

思い、考えることは、紙の上に散らすためにしているんじゃない。

だけど、こうして言葉にし、忘れずに、また変えていくことをしていけばよいのだと、思う。

風立ちぬ

俯瞰。


1年間を通して、自分が知らない街で生きてきたことで、色々と知らないことを知った。


そうやって知覚範囲が拡大するほどに認識は圧縮されていき、昔大事だったことは思い出にタグ付けされ、重要ではなくなる。

それは、道を歩くときに草影に虫を見つけるという体験がなくなったことからもわかる。


そしてまた、何に危機感を覚えているのか。

それは、アウトプットができないことである。
時間軸ではとても短い、その日の出来事やいらついたこと、面白かった体験しか口をついて出てこない。

もはや、自分が考えうることなんてないんじゃないか。
という風にも思う。

生活はうまいこといっている。
願望もある。だがいかんせん、ものを知らない。

キーボードと脳を直結させている。

見えるのは読みかけの本とCDと、折り畳み傘と通帳とたくさんのペットボトル。

こういうものがどんどんと俺から何かをはがしていって、ごみ袋の中に連れて行ってしまう。

はがしていくというイメージは的確かもしれない。

生活物としてひとくくりにしていいかわからんけど、何も考えずに使っていると、少しずつはがされていく気がする。


精神が押しつぶされていた状態からはすっかり復活したので、次のステップにきた。

このむらむらした感じを、行動か言語か何かでショウカしたいな。
「しょうか」って良い漢字がいっぱいありますね。


おわり。

2012年4月2日月曜日

自分でやる。

昨日は京都に帰って昔のバイト先だった塾の懇親会に行ってきた。

楽しかった。生徒の近況聞くのが一番楽しい。

今日は実家で寝てるだけやった。
さっき帰ってきた。


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助けてくれるものが無い状況で、明日も仕事に行く。


恥ずかしげもなく人に相談したり愚痴を言ってたらましになってきた。


それでも夜は不安で寝つけない。

閉じて、抑えて、塞いで、誰にも何も期待してはならないと肝に銘じて、
明日になってもどうにもならないことを知って、私は自慢の強い心を奮い立たせます。


ブログが自分にわからせるためのものになってきた。

2012年3月29日木曜日

小さい自分、醜い自分が許せない

いま、とてもつらい。


実際、ここの営業部にはかなり憧れていた。
かつ、1年目で営業部に配置(自分の場合は他部署から異動)されるのは過去に例がないことで、それが大いに自分への自信に繋がっている。

でも、数字と保身に狂った上長が一人いて、そいつに心を潰されかけている。



昨日は医者と、今日は人事と面談をした。


医者には、元いた部署への異動や、数週間単位の休暇を進められた。
また、精神科に通院することを勧められた。

どれも嫌だったので、拒否した。



人事には、医者と同じように、異動などの計らいができるかもしれない旨を伝えられた。

拒否した。

すごく優しかったけど、プライドがぎりぎりのところで涙を止めていた。

絶対に譲れないラインを引いて、それを越えないと判断した思いだけを慎重に打ち明けた。



最近、1カ月前くらいから、普段ほとんど話さないような方も含めて、色々な方が「最近元気ないね」とか聞いてくる。

普通だったら、久しぶりに会うわけでもない後輩に「元気か?」なんて聞かないし、それだけで今の俺が異常に見えていて、かつ俺のいないところでそういう風に言われているのがわかる。


情けない。守られている。
人から心遣いを貰う度に、情けなくて消えてしまいたくなる。

今まで、色んな人間に怒りを向けてきたけど、こんなにまで自分が許せなくなることはなかった。

2012年3月21日水曜日

優しさについて/どっかの誰かについて

人間が考えるべきことは、24時間365日決して変わらず、「次の瞬間、どうするか。」だけやと思ってた。

未来を見据えて素晴らしいモノに向かっていくのも、体を飲み込む悪いことから立ち直るのも、すべては「じゃあどうしようか」を考えて行動することから始まっていると思っていた。

もちろん、俺が今までずっと絶えずそういう風に生きてきたわけではない。そう思ってただけ。
ただ、なんか違う気がしてきた。


うずくまって泣いてる人はこれからどうしようかとか考える余裕はないのかもしれんし、どうしようもないくらい過去が喉に引っかかって新しい空気が取り入れられないのかもしれない。

なんかそこでこうすればいい、どうしたらいいっていうことを考えて、導くのは果たしてどうなのか。


俺は、俺自身が過去を引きずってずるずると意味のないことをたくさんしていることに目を瞑っていた。
なぜなら、一通りウジウジした後に、「よし、じゃあ次はどうしよう」と考えられてたから、俺は大丈夫だと思っていたからだ。

大丈夫ではない。その"一通りのウジウジ"が不十分だから、何度も何度も蘇り、蝕むのだ。

俺は、過去のことを思い出して何もできなくなるのを、花粉症やそこらの病気のように取り除くことができずに周期的に発生する、「我慢の期間」やと思ってた。


優しさっていうのは、「じゃあどうするか一緒に考えよう」というだけのことではない。
相手の問題解決を目指して先のことを考えることの比重を下げに下げて、誰かの昔のこととかに全神経を集中させられるということでもあるのだと思った。

すごく難しくて、また書くことが恥ずかしい問題である。

-------------------------------ダッセン-------------------------------

俺は未熟だし、本をたくさん読めない。
きっとこういう優しさについてのことも、いつかのどっかの誰かが、すでにとっくの昔に思ってるんだろう。
そして何ならば体系的にまとめて本にでもしているんだろうか。日本語訳はされてるんだろうか。


早く、その「どっかの昔に誰かがやってるだろう」への失望感とか無力感とか、そういうのに対抗する方法を知りたい。

23年しか生きてない俺にとって、人間の生きてきた過去だけですら、途方もなく感じる。

宇宙の過去とか未来とかについて破滅的なことを考えだすと、自分の感じることや考えることすべてに意味が無くなって怖い。
「どっかの誰かが」を考えるときに感じることは、そういう感覚に似ている。


もう少し年を重ねたら、どっかの誰かが自分の代わりに自分がやるべきだったことをしていることに対して許容というか、きちんと受け止められるようになるのだろうか。


世間一般に初恋は叶わないものというが、それならば、この世の誰かの初恋の相手は、そのほとんどが別の他の誰かと恋をするということだ。

そういう悲劇的な事柄がたくさんあると思う。

いちいち腸に熱を宿しているのもどうなのか。

考えたい。


こういうことばかりを考えてていいのかどうかも考えたい。

体系的にはまとまらない。けど、それはいいや。

2012年3月18日日曜日

肚は空っぽ

時間、戻らへんかなあ。

自分の行いのすべてが間違っている。

やさしくなりたいとか言いながら、なんだろう、意思とは別のとこで俺のせい。

ごめんなさい。

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田中慎弥『共喰い』を読んだ。

芥川賞受賞作が2つとも載ってる文藝春秋を買ったのはずっと前で、でもなんとなく読む気がしなかった。

作品の評判とかあらすじは知らないで手に取った。


掲載ページに辿り着いて読み始めたときは、描写の鬱陶しさに、勘弁してくれという気持ちになった。

この物語は、非日常的な性描写と、人間の肉体の醜さや陰鬱さに塗れて進んで行き、そのまま終わるのであろうことがぼやぁっとわかっていく感覚に、嫌気が差した。

読み始めて1分かそこらで、数ページ送って目を紙面に走らせると、セックスという文字が一瞬見えた。これで期待をせずに済むので、僅かながら安心して読むことに戻れた。



一つ特徴的だったのは、川辺という地域について執拗に繰り返される描写だった。
田舎独特の、永遠に夏が続いていくあの感覚をとても強く感じた。


正直、自分はどんな作品でも、暴力やセックスの場面は好かない。
人間の悪い部分ばかりを抉り出し、また自分自身の悪癖を高らかに掲げる類の心理描写も好かない。


でも、そういう失望感や違和感を気づかない内に吹き飛ばすほど、自分は川辺という地域にどっぷりと引き込まれていった。
そのことに気付いたのは 、捲った先のページに「道化師の蝶」というもう一つの芥川賞受賞作の題字を見たその後だった。

確かに物語は俺を引き込み、ありありと浮かぶ情景は、強烈な印象を俺の中に残した。

だがそれだけだった
読んでいて楽しくなかった。

きっと、強烈な印象はすぐに消えていくし、俺の精神には何の影響も残さないと思う。

そういう感想を持った。

2012年2月5日日曜日

発表するということのメモ

◆発表とは

  情報を他人に対して伝達すること

  たとえば、

  ・討議で意見を発表し合う
  ・学会で成果を発表する
  ・愛を告白する

  などがある。


  発表は数と関係性で、

  + 集団の中の発表:多数 ←→ 多数
  + 一方的な発表  :1人  →  多数
  + 相互の発表    :1人 ←→ 1人

  にわけられる。

  以下、

  + 集話
  + 独話
  + 対話

  と呼ぶ。


  すると、

  ・討議は「集話」
  ・学会は「独話」
  ・告白は「対話」

  となる。


◆発表の力

  発表の目的、

  - 説得する
  - 説明する
  - 感銘を与える

  この3つ。

  すると、

  - 討議では「説得する」
  - 学会では「説明する」
  - 告白では「感銘を与える」
 
  ことになる。


  すなわち、

  ・討議は「説得する集話」
  ・学会は「説明する独話」
  ・告白は「感銘を与える対話」

  となる。


  これらを組み合わせると、
 
  例)井戸端会議は      「説明する集話」
      ピアノの発表会は  「感銘を与える独話」
      営業マンのトークは「説得する対話」

  などなど。


◆ここからは

  「説明」に絞って書いていきます


◆説明とは

  ・知らない人
  ・知ってても不十分な人

  に、
 
  情報をわからせる
 
  ことです。


◆説明の技術

  説明は、
 
  ・わかりやすく
  ・丁寧
 
  でないといけない。


  2つのこと、

  1.記憶力の補助

     ・簡単な言葉を用いる
     ・順序よく進める
     ・重要なことを繰り返す

  2.想像力の補助

     ・図や絵で示す
     ・声に抑揚をつける
     ・実演や動作を用いる

  気をつけよう。


◆説明の手法

  説明には、

  「流れ」
  「ストーリー」
 
  これが大事。


  これには色々ある。

  ・時間の順序に従う
    → 歴史の本

  ・場所の順序に従う
    → 家電の説明書

  ・事実を示す
    → 裁判

  ・統計を用いる
    → ランキング

  ・比較(グルーピング)を行う
    → この投稿

  まだまだまだまだある。

  けど、


  以上。(疲れた)

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参考文献:『話の事典』(平井昌夫)
            → 今日図書館で借りた
               → 面白い。

2012年1月24日火曜日

これはステマではありません

鍵括弧つけられるものの限界はどこかと考えたら、むずかしくなった。

あり・なしでわけていく。
個人的感覚やから何の参考にもなりません。


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まずは常識の範囲で


あり
野菜「ちーっす」
カゴメ「こんにちわ」
野菜生活「おはよう」
賞味期限「さようなら」


なし
200ml「ちーっす」
特売「こんにちわ」

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じゃあ、この感覚はなんなのだ、、、


あり
200「よお」


なし
ml「久しぶり」

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これはわかりやすかった。

あり
ムドー「ちーっす」
ドラクエ3「よお」


なし
ドラクエ「こんにちわ」

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結論:
    あり、はすべて形でイメージできる。
     → 数字自体にも形がある

    なし、はイメージできないことはないが、「これだ」というイメージの基準となる形がない
     → というか、その言葉がさらに世界を内包してたり、
                      連想されるものが多すぎるだけなのか

というモヤモヤが今ありますよーっという話。

2011年12月20日火曜日

岡本太郎「美しく怒れ」を読んだ

以下、みじかい所感です。


・彼が本書の中で「怒る」のは、一個人や歴史の一時点にではなく、組織であり、社会の潮流に対してである。そのことが、生きてエネルギーを発し、生きて歴史を形成するものとしての人間存在についての重要な示唆を含んでいるように思える。

・「ふくらみ」という言葉を多用している。それも、形而下的な、形の上での「膨らみ」ではなく、形而上的な意味を語ろうとする文脈で用いているのが特徴的であった。それは肉体という器を飛び出していく自分自身そのものの「ふくらみ」である。

・強く感じられたのは、彼の語る幅である。動物、自然への畏敬や絵を描くということに対する観念や、はたまた政治的な問題に対しても、意見を持ち、提案し、怒っている。我々皆が自然に生まれた人間なのだから、自然に対して、あるいは人間が作ったものに対してすべからく意見できるのは当然のことだと実感した。

・何に対しても彼の怒りには一本の筋が通っている。そのことがここまで彼の文書を魅力の深いものにしている。と同時に、一本の筋が様々の分野に光を反射して、幾つもの彩りをもって表われている。語ることは面白いと感じた。

2011年12月19日月曜日

髪を切る前と切った後

昨日と今日はとても楽しかった。

友達が近くにいないから、人との交流を全力で楽しむようになった。

2011年12月12日月曜日

日曜日の夜!

頭が良くなったら、周りの人の困ってることを助けたい。
口を出すだけじゃなくて、時には行動も起こして。

本の中の人や現実の人やCDの中の人にかつて助けられたみたいに、俺も誰かにそうしたい。

あ、そういう風に考えたらいいんや
へぇ、そんな行動をすればいいんや

っていうことを、どんどん共有していきたいね。

でも、そのためには頭が良くなるだけではいけない。
それと同時に、心を優しくする必要がある。

自分が時間をかけて考えたり気付いたり学んだことを共有するのには、強い意志と心の優しさが要るからである。
自分が考えついたことを人に全部教えることに「勿体ない」と思う浅ましい気持ちがどうしても生まれる。
そのことを認め、しかしその上を踏み越えて誰かに共有しないと、心が籠らないので伝わらない。正しく伝わらない。

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「受け手の自由」というものを俺は積極的に尊重しない。
どんな思想や芸術も意味ありきであるべきだと思う。

意味をたらふくぶち込んであれば、重たくて感じにくくても、逆に散文的であろうとも伝わる。
そして、そういう誰かの考えを自分に伝えてやりたいと思う。

スカした野郎の空砲に踊らされるよりも、血肉を込めた弾丸に潔く撃ち抜かれる方がよっぽど気分がいい。
例えそれで傷を負っても、必ず完治する。

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心の機微は素粒子のようなものとして捉えられる。
強く相似なもの同士の結びつきで大きくなり、機能を増していく。
そしてそれらを肉眼で観測できる最小の単位が言葉なのである。

三島由紀夫の「詩を書く少年」と、ミシェルウェルベックの「素粒子」から連想された以上のような思想は、最近根付いたものなのだが、時間に比例せずなかなか深くまで根を降ろしたように感じる。

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日曜日の夜!

2011年12月3日土曜日

パソコンないとあたし死ぬねん

lenovoのThinkPadE420を買った!性能に比してまじ意味わからん安さやから、割とカスタマイズして良い感じの装備にしたった!具体的には指紋センサーとかつけて、CPUも底上げして、メモリもデフォで2スロットのところ同容量で1スロットのに変えた!!指紋センサーいらねえええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!!

それがついさっきお隣の中国(天国と地国の間にある国)から発送されたというメールがきて、我今期待ニ胸躍ルの状態にあるのよね。

そしたら、そのメールを確認してからというもの、俺の愛用機大学の生協で買ったクソFMVが、いつもの暴力的なファン&ハードディスク音を鳴らさなくなった。

これはゆゆしき事態やわ。完全に寿命を悟って何かする気や。おれがデスクトップに置きまくってるテキストファイル(色んな書きかけのもの)をまとめて地獄に送る気かな?

まあだましだまし使い続けてバッテリーをはじめとするあらゆる機能がゴミになったので、今キーをかたかた打ってるこいつは別にサブ機とかにはならずに、ハードディスク叩き割ってどっかに引き取ってもらうつもりです。

こんなわけわからnソフトがインストールされまくってESCキーも取れた子に正直言って愛着はわかない。
「わけわからんソフトが多い」ってのがかなりでかいな。もうなんか色んなところに色んなファイルがありすぎて。。。。。


次に家に来るやつには、以下のフォルダしか作らずにおこうと思います。

「音楽」
「写真」
「ムービー」
「TXT」
「EROS」
「ブックマーク」


はいこれだけ。これだけあれば生きていける。
ソフトもiTUNESとIEのみの情弱仕様。クソクロームはもう入れない(←クソクロームっていう言葉の響きがめっちゃ好きで最近よく言ってる)

あと、ことばの響きで好きなのって言ったら、「庄屋か」っていう突っ込みが最近お気に入りやねん。

先輩とかに仕事振られたら極力「はいよろこんでー!」って言うようにしてんねんけど、5人いたら1人しか『庄屋か!』って突っ込んでくれへん。
ちなみにその突っ込んでくれる先輩が貸してくれたラーメンズ小林賢太郎のDVDをさっきまで見てましたが、内容が濃すぎて完全にお腹いっぱいモードになった。途中でやめた。

金曜日は野性爆弾川島の演劇に行きたかったけどいけなかったからまた機会を待つぼっくり。(しゃれ)

あかん、あかんわ

物を書いて遊ぶという行為を大学生の頃よくやっててんけど、それを最近復活させようとしてるねん。

あの時ほど生きることに時間有り余ってないけど、その代わり色々捗るようになったから大丈夫やとおもうてんねん。

そんで、前のブログ「不機嫌な僕のダックスフント」をひたすら読み返して、俺ってどういう物を書いてたんやろうって漠然と見ててんけど、びっくりした。


何にびっくりしたって、その正直さによ。

文章が下手糞すぎて読んでられへんところもあるけど、書いてることが正直すぎてすごく驚いてる。
むかついてるから批判して、楽しんだから喜んでっていう、当たり前のことをずーーーーーーっとしてる。

今の俺はどうだ。

意味と文字数ばっかり多くなって、絶対に本当に書きたいことをかけてない。
生活のことをブログに一切かかへんのもそうや。なんかおかしい。絶対におかしい。

思えばこっちに切り替えてから、ブログ書くのになんかのルール設けて、そっからあんまり楽しくなくなった。

くそが、なんで22歳になったらまともなことかかなあかんねん。Web上で関西弁使わへんねん。敬語やねん。

今までの記事は全部好きやけど、俺は自然になりたい。ちんこのとこにゾウの牙みたいなんつけて、ヒッポリト文明一の凄腕占い師ホストになりたい。

あと西のカリスマ栗剥き師にもなりたいし、闇武道会のイベントプレゼンターにもなりたいし、焼きビーフンも食べたいし世界とか一つで平和になればいい。

おわり。

2011年11月26日土曜日

学びて思わざればすなわち罔し、について

「努力の人」とか「成功者」とかいうキャッチコピーは最近あまりみないが、先駆者的な役割をかつて(今も)果した(ている)人達の話というのは中々に価値があるものだと思う。

だが、そういった人達がスタートラインから一つの目的に向けて走ってきたかどうかは危ういということにも気付いていないといけないと思う。インタビューや講演というのは、少なからず商業用に加工された言葉をもって構成された、一連の創作だからである。
「『○○になりたい』という目的をしっかりもってやり続けてきた」と、今になって語るのは、いわば後だしである。
何十年前、その講演者が若かりし頃。グングンと栄養を吸い、学び、考え、経験し、成長を続けていた頃。
そのときから、彼は既に目標・目的を明示的な言葉で固め、自身の未来に向けて据えていたのであろうか。私はそうは思わない。

目的を達成し、まさに次世代の人間たちの先達となるために自分自身の経験を惜しみなく語ってくれるその人は、語るに連れて気付かぬうちに言葉に囚われ、過去の自分の脳内を急激に現在の状態まで成長させたという錯覚に陥っているのだ。
今になって雄弁に自身の成功や挫折を語る彼が、まさにがむしゃらに走り続けているかつてのときから、今振り返って思われる『人生の目標』をくっきりと浮かばせていたとは考えられない。それは「がむしゃら」ではない。

きっと、言葉にならない願望や感情の断片が、数多の粒子状になったものが当時の彼の頭の中を揺れ動いていたのだと思う。
ときにそれらは結集し、一つの具体的な像のような姿を成したかもしれない。
ときにそれらは霧散し、彼の眼を曇らせ眩ませるだけの濃霧にもなったかもしれない。
しかし、ときたまチラつく幻のような自分の真意を認識し、直観を追い続けることができるのであれば、きっと何年後・何十年後に、粒子は増え、密度を増し、やがてくっきりとした像を成すのだと思われる。
時が経った彼らはその像を認識することで、あたかも若かりし自分はずっと前からその像を知覚しており、それだけを追い求めた健気な青年だったと、過去を振り返るのだ。
それだけではない。もしかすると、彼は過去を思い出して語ることで、その当時認識し得なかった自分の真意をはっきりと認識しているのかもしれない。
もしそうであれば、彼にとっては素晴らしいことである。
だが、素晴らしいとは言え、今を走る若輩者たちにその知覚された経験を差し出すのは残酷だと言わざるを得ない。
なぜなら、彼が差し出す『俺は20歳の頃こうだった』『君等も20歳のときはこうすると良い』は、本当は数十年分の経験を上乗せした後、多少薄めることで作られた「架空の20歳」だからである。
そして、若者がその真似をして自分をしっかり知覚しようとしたところで、得られる現実の像の持つ力はたかが知れている。

先達の語るかつての20歳と、生きる自分の20歳を比べて思うのだ。『僕は無力だ』と。
私たちは、先達が優しさで示し出す幻の若者なんかに、惑わされてはならないのだ。


おわり。

2011年11月9日水曜日

まだ続く僕の嫉みの話

前回の記事に引き続いて、あいつらについての話をしようと思う。

今回焦点を当てるのは、あいつらが世界を切り分ける様についてである。

前回の記事では、かなり感情的になってキーボードをたたきまくったから、あんまり読みやすくてわかりやすいとは言えなかったと思う。(あれはまじですぐ書けた)


あいつらは、主に容姿のレベルや、衣服のセンス、日常的なセックスの可否、そして一人で他者を批判しない心の有無で、人間を分ける。どんな小社会にでも、「3人以上」いれば、そこにコミュニティを作り上げる。
そのコミュニティの中では周囲(この周囲が互いを必ず認め合う「みんな」であることが重要) からの評価こそが生きるライセンスになるのだ。

そういう「みんな」となった者たちは、上でも下でもない、しかし確実にチガウところから、「みんな」でない者たちを見る。

たぶんそういう構造になっている。書くの疲れたからまとめる。


考え方や感じ方は色々ある。
主に「自分(myself)」と「全体(world)」  であり、どれだけ切り分けたって一つに包括されることを逃れることはできない。


彼らは、全てを一つに包括する体系を拒絶する。
だから私も、innner と outer を作りあげた。

私と彼らの間で決定的に違う部分は何か。

それは、自らを 内側(inner)におくか、外側(outer)に位置付けるかの違いである。

そして、自らを内側におく類の者たちが使う言葉は「みんな」であり、外側に位置付ける者たちは「自分」と、そのような言葉で自らを呼ぶのだ。

内と外ではどちらも互いに分断されている点では同じだが、私は絶対的に後者であるのだ。(ここで自身を後者に位置付けたことにも何かしらの意義があり、先から「位置づける」という言葉を以てして自らを説明することにもきっと意味がある)

2011年9月30日金曜日

言葉なんてのは「好き」と「死ね」だけ知っていれば生きていけるんです

若者が。
若者が若者が若者が
「けだるい」「広い交友関係」「繋がり」「自由」「何にも縛られないで生きる」「自然体な」「ありのままの自分」「やる気にあふれる」「向上心のある」「人を大切にする」「人に関わる仕事がしたい」「ゆるい」「てきとー」「自分のセカイ」「ダウナー」「コミュニケーション」

そういう言葉を好む若者が嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い

あいつらの汚さ
自分でじぶんの汚さに気付いていない汚さがほんとうに我慢ならない殺したい全員殺したい

自由な世界に生きてるなんて嘘嘘嘘嘘嘘嘘 嘘。
好きな服きてその場で会っただけの奴らと仲良くなり、愛し合い、自由に生きるなんて、生まれつきの容貌の良い一部の限られた人間にしかできない。

なぜならそれは限りなく閉じた世界。自分達を選民だと思っている

俺みたいな心の体も醜い根暗な人間はあんなサークルへ 入れる訳がない。 これはただの嫉妬ではない。嫉妬以上のメッセージを込めている。あんな自分たちで「自分たち」を選んでいる奴らが「自由を求める」なんて嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘クソクソくそクソクソクソクソクソクソ排他的排他的排他的排他的排他的排他的排他的排他的排他的死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。

同じ空間を共有しなければならなくて近付いても、外見容貌見た目で否定されて嘲笑がずっとずっとずっと続く。そんなんわからん。なんで笑われてんのかわからん。

あいつらが自分達のことを、誰とでも分け隔てなく人と付き合うとかそういう感じに思い込んでいるそのさまがむかつく。
そしてそのような気持ちの悪い偽善的で(この文章のように)何も考えられていないメッセージに対して共感する若者、恥も外聞もなく「あなたたちのセカイの仲間に入れて欲しいの」とかほざく奴らも嫌い嫌い嫌い嫌い。


でもそれよりもっと万死に値する存在が、シニカルだかなんだかそんな面して「おれ達は自由な訳がない」とかほざく奴ら。
「俺はまともじゃない」「私はわがままだよ」「俺は良い人じゃないよ」とかいうね。自分で自分の低能さに免罪符を作るという最も愚かで生きているべきでない人間 。

入り口がない。俺に開かれた入り口だけがない。

そして絶対俺だけじゃない。 絶対俺だけじゃない。もっといる。 だから疎外感に死んでしまったりしない。もっともっと生きていなければならない。

いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ

いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ

いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ
いつかみてろいまにみてろ

2011年9月25日日曜日

夢の中で走るときのように、靄を払う腕には全く力が入らない

現代人には?日本人には?

範疇はわからないけど、人間には、以下の特徴がある。

・些細なことを大声で騒ぎ議論する
・複雑な事柄から(無)意識的に目をそらす

最近のニュースや、会社という組織に入って自分の能力を発揮していることで、色々知りました。
メディア媒体の報道なんかはこの特徴によく合わせて作ってある。


そして往々にして、こういうことも併せて言える。

・「些細なこと」=「自分がわかる(議論できる範囲の)こと」
・「複雑な事柄」=「早急かつ真剣に向き合うべき問題」


人間は、力無く、愚鈍で、それでいて利己的な存在だ。

だから、

力のない中でも力のある方のやつ
愚鈍な中でも他よりマシなやつ

そういう立ち位置を求める。

すると、周囲の評価(もしくは環境に影響され作りあげた『ジブンのカチカン』)で高評価を得られるように、他者に(自分に)効果的なアピールを模索する。


例えば複雑な事柄を紐解き、解を導いたところで、評価の量的な増加は認められず、もし得られたとしてもそれは本質をつかない漠然とした「すごいのか」という感情である。(無論、それも周囲が「すごい」とほめそやすセリフを聞いてのことである。)

一方、「些細なこと」=「一人の人間にわかる範囲のこと」=「大概の人間がわかる範囲のこと」を発見し、大層に分析し、大声で怒鳴りちらすそのアピールは、多くの人間の耳に、殊正確に届くことだろう。

そしてその声明は、知的水準の低い人間の理解という湖に波風立てずストンと沈むものであればあるほど、高評価になる。



新しいこと、形の掴めない漠然としたこと、数多の歴史が絡み合い複雑に凝固したことなどに立ち向かい、もがき暴れる必要はない。

自分にわかる範囲に目を凝らしてさえいれば、処理・分析能力の高い人間として一定の評価を得続けられてしまうのだ。


そこには意志もあるし、何か問題を良くしようと真剣に考えての行動もあることだろう。


ただ、俺はそんな狭い範囲で智慧をうろうろさせる状態を、かっこいいとは思わない。



はっきり言って、今こうやって書いている記事も、俺にわかる範疇のことである。
当然だ。これは文章だ。脳が織りなす意識の爆散と収斂を経た後の搾りかすだ。



行動というもののやり方がわからず、考えるということのやり方もわからない。

ただ「思うこと」ばかりやってきたので、俺の中には他者がいない。


自分がそんな状態を抜け出そうとしているのはわかるけど、具体的なメソッドを立てることと向き合ったりはしない。
歯がゆい。冒頭で偉そうに批判した人間と、俺は何一つ変わらない。


わからないことを凝視すること。
わからないことを自分に取り込むこと。

これが凄く難しいことがわかった。やり方はまだわからない。


でも、知覚は全てにおける第一歩だと考えるので、今は少し嬉しいと思う。

2011年9月24日土曜日

止まって、わざと、煌めいて。

澱む水槽、混濁する夢想

セクシュアルモチーフ、倒錯のトーキョーライト


真実はどこにある?

思い出せない、が増えていく



体は水に沈んでいく


隔たり
隔たり

見ずに死んでいく