2012年3月21日水曜日

優しさについて/どっかの誰かについて

人間が考えるべきことは、24時間365日決して変わらず、「次の瞬間、どうするか。」だけやと思ってた。

未来を見据えて素晴らしいモノに向かっていくのも、体を飲み込む悪いことから立ち直るのも、すべては「じゃあどうしようか」を考えて行動することから始まっていると思っていた。

もちろん、俺が今までずっと絶えずそういう風に生きてきたわけではない。そう思ってただけ。
ただ、なんか違う気がしてきた。


うずくまって泣いてる人はこれからどうしようかとか考える余裕はないのかもしれんし、どうしようもないくらい過去が喉に引っかかって新しい空気が取り入れられないのかもしれない。

なんかそこでこうすればいい、どうしたらいいっていうことを考えて、導くのは果たしてどうなのか。


俺は、俺自身が過去を引きずってずるずると意味のないことをたくさんしていることに目を瞑っていた。
なぜなら、一通りウジウジした後に、「よし、じゃあ次はどうしよう」と考えられてたから、俺は大丈夫だと思っていたからだ。

大丈夫ではない。その"一通りのウジウジ"が不十分だから、何度も何度も蘇り、蝕むのだ。

俺は、過去のことを思い出して何もできなくなるのを、花粉症やそこらの病気のように取り除くことができずに周期的に発生する、「我慢の期間」やと思ってた。


優しさっていうのは、「じゃあどうするか一緒に考えよう」というだけのことではない。
相手の問題解決を目指して先のことを考えることの比重を下げに下げて、誰かの昔のこととかに全神経を集中させられるということでもあるのだと思った。

すごく難しくて、また書くことが恥ずかしい問題である。

-------------------------------ダッセン-------------------------------

俺は未熟だし、本をたくさん読めない。
きっとこういう優しさについてのことも、いつかのどっかの誰かが、すでにとっくの昔に思ってるんだろう。
そして何ならば体系的にまとめて本にでもしているんだろうか。日本語訳はされてるんだろうか。


早く、その「どっかの昔に誰かがやってるだろう」への失望感とか無力感とか、そういうのに対抗する方法を知りたい。

23年しか生きてない俺にとって、人間の生きてきた過去だけですら、途方もなく感じる。

宇宙の過去とか未来とかについて破滅的なことを考えだすと、自分の感じることや考えることすべてに意味が無くなって怖い。
「どっかの誰かが」を考えるときに感じることは、そういう感覚に似ている。


もう少し年を重ねたら、どっかの誰かが自分の代わりに自分がやるべきだったことをしていることに対して許容というか、きちんと受け止められるようになるのだろうか。


世間一般に初恋は叶わないものというが、それならば、この世の誰かの初恋の相手は、そのほとんどが別の他の誰かと恋をするということだ。

そういう悲劇的な事柄がたくさんあると思う。

いちいち腸に熱を宿しているのもどうなのか。

考えたい。


こういうことばかりを考えてていいのかどうかも考えたい。

体系的にはまとまらない。けど、それはいいや。

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