2011年12月20日火曜日

岡本太郎「美しく怒れ」を読んだ

以下、みじかい所感です。


・彼が本書の中で「怒る」のは、一個人や歴史の一時点にではなく、組織であり、社会の潮流に対してである。そのことが、生きてエネルギーを発し、生きて歴史を形成するものとしての人間存在についての重要な示唆を含んでいるように思える。

・「ふくらみ」という言葉を多用している。それも、形而下的な、形の上での「膨らみ」ではなく、形而上的な意味を語ろうとする文脈で用いているのが特徴的であった。それは肉体という器を飛び出していく自分自身そのものの「ふくらみ」である。

・強く感じられたのは、彼の語る幅である。動物、自然への畏敬や絵を描くということに対する観念や、はたまた政治的な問題に対しても、意見を持ち、提案し、怒っている。我々皆が自然に生まれた人間なのだから、自然に対して、あるいは人間が作ったものに対してすべからく意見できるのは当然のことだと実感した。

・何に対しても彼の怒りには一本の筋が通っている。そのことがここまで彼の文書を魅力の深いものにしている。と同時に、一本の筋が様々の分野に光を反射して、幾つもの彩りをもって表われている。語ることは面白いと感じた。

2011年12月19日月曜日

髪を切る前と切った後

昨日と今日はとても楽しかった。

友達が近くにいないから、人との交流を全力で楽しむようになった。

2011年12月12日月曜日

日曜日の夜!

頭が良くなったら、周りの人の困ってることを助けたい。
口を出すだけじゃなくて、時には行動も起こして。

本の中の人や現実の人やCDの中の人にかつて助けられたみたいに、俺も誰かにそうしたい。

あ、そういう風に考えたらいいんや
へぇ、そんな行動をすればいいんや

っていうことを、どんどん共有していきたいね。

でも、そのためには頭が良くなるだけではいけない。
それと同時に、心を優しくする必要がある。

自分が時間をかけて考えたり気付いたり学んだことを共有するのには、強い意志と心の優しさが要るからである。
自分が考えついたことを人に全部教えることに「勿体ない」と思う浅ましい気持ちがどうしても生まれる。
そのことを認め、しかしその上を踏み越えて誰かに共有しないと、心が籠らないので伝わらない。正しく伝わらない。

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「受け手の自由」というものを俺は積極的に尊重しない。
どんな思想や芸術も意味ありきであるべきだと思う。

意味をたらふくぶち込んであれば、重たくて感じにくくても、逆に散文的であろうとも伝わる。
そして、そういう誰かの考えを自分に伝えてやりたいと思う。

スカした野郎の空砲に踊らされるよりも、血肉を込めた弾丸に潔く撃ち抜かれる方がよっぽど気分がいい。
例えそれで傷を負っても、必ず完治する。

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心の機微は素粒子のようなものとして捉えられる。
強く相似なもの同士の結びつきで大きくなり、機能を増していく。
そしてそれらを肉眼で観測できる最小の単位が言葉なのである。

三島由紀夫の「詩を書く少年」と、ミシェルウェルベックの「素粒子」から連想された以上のような思想は、最近根付いたものなのだが、時間に比例せずなかなか深くまで根を降ろしたように感じる。

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日曜日の夜!

2011年12月3日土曜日

パソコンないとあたし死ぬねん

lenovoのThinkPadE420を買った!性能に比してまじ意味わからん安さやから、割とカスタマイズして良い感じの装備にしたった!具体的には指紋センサーとかつけて、CPUも底上げして、メモリもデフォで2スロットのところ同容量で1スロットのに変えた!!指紋センサーいらねえええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!!

それがついさっきお隣の中国(天国と地国の間にある国)から発送されたというメールがきて、我今期待ニ胸躍ルの状態にあるのよね。

そしたら、そのメールを確認してからというもの、俺の愛用機大学の生協で買ったクソFMVが、いつもの暴力的なファン&ハードディスク音を鳴らさなくなった。

これはゆゆしき事態やわ。完全に寿命を悟って何かする気や。おれがデスクトップに置きまくってるテキストファイル(色んな書きかけのもの)をまとめて地獄に送る気かな?

まあだましだまし使い続けてバッテリーをはじめとするあらゆる機能がゴミになったので、今キーをかたかた打ってるこいつは別にサブ機とかにはならずに、ハードディスク叩き割ってどっかに引き取ってもらうつもりです。

こんなわけわからnソフトがインストールされまくってESCキーも取れた子に正直言って愛着はわかない。
「わけわからんソフトが多い」ってのがかなりでかいな。もうなんか色んなところに色んなファイルがありすぎて。。。。。


次に家に来るやつには、以下のフォルダしか作らずにおこうと思います。

「音楽」
「写真」
「ムービー」
「TXT」
「EROS」
「ブックマーク」


はいこれだけ。これだけあれば生きていける。
ソフトもiTUNESとIEのみの情弱仕様。クソクロームはもう入れない(←クソクロームっていう言葉の響きがめっちゃ好きで最近よく言ってる)

あと、ことばの響きで好きなのって言ったら、「庄屋か」っていう突っ込みが最近お気に入りやねん。

先輩とかに仕事振られたら極力「はいよろこんでー!」って言うようにしてんねんけど、5人いたら1人しか『庄屋か!』って突っ込んでくれへん。
ちなみにその突っ込んでくれる先輩が貸してくれたラーメンズ小林賢太郎のDVDをさっきまで見てましたが、内容が濃すぎて完全にお腹いっぱいモードになった。途中でやめた。

金曜日は野性爆弾川島の演劇に行きたかったけどいけなかったからまた機会を待つぼっくり。(しゃれ)

あかん、あかんわ

物を書いて遊ぶという行為を大学生の頃よくやっててんけど、それを最近復活させようとしてるねん。

あの時ほど生きることに時間有り余ってないけど、その代わり色々捗るようになったから大丈夫やとおもうてんねん。

そんで、前のブログ「不機嫌な僕のダックスフント」をひたすら読み返して、俺ってどういう物を書いてたんやろうって漠然と見ててんけど、びっくりした。


何にびっくりしたって、その正直さによ。

文章が下手糞すぎて読んでられへんところもあるけど、書いてることが正直すぎてすごく驚いてる。
むかついてるから批判して、楽しんだから喜んでっていう、当たり前のことをずーーーーーーっとしてる。

今の俺はどうだ。

意味と文字数ばっかり多くなって、絶対に本当に書きたいことをかけてない。
生活のことをブログに一切かかへんのもそうや。なんかおかしい。絶対におかしい。

思えばこっちに切り替えてから、ブログ書くのになんかのルール設けて、そっからあんまり楽しくなくなった。

くそが、なんで22歳になったらまともなことかかなあかんねん。Web上で関西弁使わへんねん。敬語やねん。

今までの記事は全部好きやけど、俺は自然になりたい。ちんこのとこにゾウの牙みたいなんつけて、ヒッポリト文明一の凄腕占い師ホストになりたい。

あと西のカリスマ栗剥き師にもなりたいし、闇武道会のイベントプレゼンターにもなりたいし、焼きビーフンも食べたいし世界とか一つで平和になればいい。

おわり。

2011年11月26日土曜日

学びて思わざればすなわち罔し、について

「努力の人」とか「成功者」とかいうキャッチコピーは最近あまりみないが、先駆者的な役割をかつて(今も)果した(ている)人達の話というのは中々に価値があるものだと思う。

だが、そういった人達がスタートラインから一つの目的に向けて走ってきたかどうかは危ういということにも気付いていないといけないと思う。インタビューや講演というのは、少なからず商業用に加工された言葉をもって構成された、一連の創作だからである。
「『○○になりたい』という目的をしっかりもってやり続けてきた」と、今になって語るのは、いわば後だしである。
何十年前、その講演者が若かりし頃。グングンと栄養を吸い、学び、考え、経験し、成長を続けていた頃。
そのときから、彼は既に目標・目的を明示的な言葉で固め、自身の未来に向けて据えていたのであろうか。私はそうは思わない。

目的を達成し、まさに次世代の人間たちの先達となるために自分自身の経験を惜しみなく語ってくれるその人は、語るに連れて気付かぬうちに言葉に囚われ、過去の自分の脳内を急激に現在の状態まで成長させたという錯覚に陥っているのだ。
今になって雄弁に自身の成功や挫折を語る彼が、まさにがむしゃらに走り続けているかつてのときから、今振り返って思われる『人生の目標』をくっきりと浮かばせていたとは考えられない。それは「がむしゃら」ではない。

きっと、言葉にならない願望や感情の断片が、数多の粒子状になったものが当時の彼の頭の中を揺れ動いていたのだと思う。
ときにそれらは結集し、一つの具体的な像のような姿を成したかもしれない。
ときにそれらは霧散し、彼の眼を曇らせ眩ませるだけの濃霧にもなったかもしれない。
しかし、ときたまチラつく幻のような自分の真意を認識し、直観を追い続けることができるのであれば、きっと何年後・何十年後に、粒子は増え、密度を増し、やがてくっきりとした像を成すのだと思われる。
時が経った彼らはその像を認識することで、あたかも若かりし自分はずっと前からその像を知覚しており、それだけを追い求めた健気な青年だったと、過去を振り返るのだ。
それだけではない。もしかすると、彼は過去を思い出して語ることで、その当時認識し得なかった自分の真意をはっきりと認識しているのかもしれない。
もしそうであれば、彼にとっては素晴らしいことである。
だが、素晴らしいとは言え、今を走る若輩者たちにその知覚された経験を差し出すのは残酷だと言わざるを得ない。
なぜなら、彼が差し出す『俺は20歳の頃こうだった』『君等も20歳のときはこうすると良い』は、本当は数十年分の経験を上乗せした後、多少薄めることで作られた「架空の20歳」だからである。
そして、若者がその真似をして自分をしっかり知覚しようとしたところで、得られる現実の像の持つ力はたかが知れている。

先達の語るかつての20歳と、生きる自分の20歳を比べて思うのだ。『僕は無力だ』と。
私たちは、先達が優しさで示し出す幻の若者なんかに、惑わされてはならないのだ。


おわり。

2011年11月9日水曜日

まだ続く僕の嫉みの話

前回の記事に引き続いて、あいつらについての話をしようと思う。

今回焦点を当てるのは、あいつらが世界を切り分ける様についてである。

前回の記事では、かなり感情的になってキーボードをたたきまくったから、あんまり読みやすくてわかりやすいとは言えなかったと思う。(あれはまじですぐ書けた)


あいつらは、主に容姿のレベルや、衣服のセンス、日常的なセックスの可否、そして一人で他者を批判しない心の有無で、人間を分ける。どんな小社会にでも、「3人以上」いれば、そこにコミュニティを作り上げる。
そのコミュニティの中では周囲(この周囲が互いを必ず認め合う「みんな」であることが重要) からの評価こそが生きるライセンスになるのだ。

そういう「みんな」となった者たちは、上でも下でもない、しかし確実にチガウところから、「みんな」でない者たちを見る。

たぶんそういう構造になっている。書くの疲れたからまとめる。


考え方や感じ方は色々ある。
主に「自分(myself)」と「全体(world)」  であり、どれだけ切り分けたって一つに包括されることを逃れることはできない。


彼らは、全てを一つに包括する体系を拒絶する。
だから私も、innner と outer を作りあげた。

私と彼らの間で決定的に違う部分は何か。

それは、自らを 内側(inner)におくか、外側(outer)に位置付けるかの違いである。

そして、自らを内側におく類の者たちが使う言葉は「みんな」であり、外側に位置付ける者たちは「自分」と、そのような言葉で自らを呼ぶのだ。

内と外ではどちらも互いに分断されている点では同じだが、私は絶対的に後者であるのだ。(ここで自身を後者に位置付けたことにも何かしらの意義があり、先から「位置づける」という言葉を以てして自らを説明することにもきっと意味がある)