2011年9月25日日曜日

夢の中で走るときのように、靄を払う腕には全く力が入らない

現代人には?日本人には?

範疇はわからないけど、人間には、以下の特徴がある。

・些細なことを大声で騒ぎ議論する
・複雑な事柄から(無)意識的に目をそらす

最近のニュースや、会社という組織に入って自分の能力を発揮していることで、色々知りました。
メディア媒体の報道なんかはこの特徴によく合わせて作ってある。


そして往々にして、こういうことも併せて言える。

・「些細なこと」=「自分がわかる(議論できる範囲の)こと」
・「複雑な事柄」=「早急かつ真剣に向き合うべき問題」


人間は、力無く、愚鈍で、それでいて利己的な存在だ。

だから、

力のない中でも力のある方のやつ
愚鈍な中でも他よりマシなやつ

そういう立ち位置を求める。

すると、周囲の評価(もしくは環境に影響され作りあげた『ジブンのカチカン』)で高評価を得られるように、他者に(自分に)効果的なアピールを模索する。


例えば複雑な事柄を紐解き、解を導いたところで、評価の量的な増加は認められず、もし得られたとしてもそれは本質をつかない漠然とした「すごいのか」という感情である。(無論、それも周囲が「すごい」とほめそやすセリフを聞いてのことである。)

一方、「些細なこと」=「一人の人間にわかる範囲のこと」=「大概の人間がわかる範囲のこと」を発見し、大層に分析し、大声で怒鳴りちらすそのアピールは、多くの人間の耳に、殊正確に届くことだろう。

そしてその声明は、知的水準の低い人間の理解という湖に波風立てずストンと沈むものであればあるほど、高評価になる。



新しいこと、形の掴めない漠然としたこと、数多の歴史が絡み合い複雑に凝固したことなどに立ち向かい、もがき暴れる必要はない。

自分にわかる範囲に目を凝らしてさえいれば、処理・分析能力の高い人間として一定の評価を得続けられてしまうのだ。


そこには意志もあるし、何か問題を良くしようと真剣に考えての行動もあることだろう。


ただ、俺はそんな狭い範囲で智慧をうろうろさせる状態を、かっこいいとは思わない。



はっきり言って、今こうやって書いている記事も、俺にわかる範疇のことである。
当然だ。これは文章だ。脳が織りなす意識の爆散と収斂を経た後の搾りかすだ。



行動というもののやり方がわからず、考えるということのやり方もわからない。

ただ「思うこと」ばかりやってきたので、俺の中には他者がいない。


自分がそんな状態を抜け出そうとしているのはわかるけど、具体的なメソッドを立てることと向き合ったりはしない。
歯がゆい。冒頭で偉そうに批判した人間と、俺は何一つ変わらない。


わからないことを凝視すること。
わからないことを自分に取り込むこと。

これが凄く難しいことがわかった。やり方はまだわからない。


でも、知覚は全てにおける第一歩だと考えるので、今は少し嬉しいと思う。

2011年9月24日土曜日

止まって、わざと、煌めいて。

澱む水槽、混濁する夢想

セクシュアルモチーフ、倒錯のトーキョーライト


真実はどこにある?

思い出せない、が増えていく



体は水に沈んでいく


隔たり
隔たり

見ずに死んでいく

2011年9月16日金曜日

弱虫毛虫

こんにちは。

人から「メンヘラ」と呼ばれることが何回かあったので、実際にメンヘラの人と会って話してきました。
そのときのことです。


長々と一部始終と思ったことを書こうと思いましたが、明日は早いので簡単に書きます。


インターネットで募って、20代から心の病気を治療中であるという30代の男の人に、話を聞いてもらった。


結果から言いますと、あんまりよくないみたいだった。なんか結構キてるっぽい。

話しを聞きながらすごい怖くて、何回も机の上のコーヒーひっくり返して走って逃げたくなったけど、頑張って最後まで聞いた。
(それでもやっぱり今日は話の途中で切り上げさせて貰った)



素とのギャップが激しいパブリックイメージが凝り固まり過ぎて、自分で自分がよくわからない状態なので、バランスが崩れやすいそうだ。へえ。

入社後に会社で受けた面談でストレスなんたらの専門家に「性格が矛盾しているから気をつけて」と言われたのを思い出した。


まあ今日会ったその人はお医者さんでもなんでもない普通の人やったので、全て信じることはないけどね。


そういう感じのことを聞いたので、さっそくですが、今までしなかったことを色々していこうと思う。


俺は、「病む」っていう言葉がすごく嫌いだった。

その言葉を、ただの機嫌悪いだけの自己中心的なクズが周囲の気を引くためによく使うからだ。


だからこんなことをブログに書くのはすごく弱虫なことだから書きたくなかった。


でも書きたかったので、こうやって書いた。
嫌なのは嫌なので、ツイッターとの連携は解除した(はずや)けどな。

こういうことをしばらくしていこうと思います。

――――――――キリトリ――――――――

自分は変な人のふりをした普通の人やと信じてたけど、違ったぽい。

これはさびしいことですね。

2011年9月11日日曜日

このブログ

惰性で続けている。

このブログで声を張り上げたいことはいっぱいあって、実際それらはEvernoteの中に全部放り込んである。
でも投稿する気にはならない。

だからしばらく、ブログに慣れようと思うので、適当なことを書きまくろうと思う。

日記を書こうと思う。

何か変わればいいなあと思う。

――――――――キリトリ――――――――

自分で淹れたコーヒーの方がおいしいけど、ボトルを洗う1分くらいの手間を考えてコンビニでコーヒーを買ってしまった。(ストローを挿して飲むタイプ)

おいしくなかった。

――――――――キリトリ――――――――

自分が無知すぎて、本当に恥ずかしい。

無我夢中で知識を吸収したいが為に本を読みまくっても、それを使うのがとても下手だから、だんだん本を読むモチベーションも無くなってくる。

オセロとか将棋が下手で、テレビゲームもすごく下手です。

根本的に思考力が悪いのに、なんで俺は義務教育の中で自分は頭が良い、って思い込んでたんだろうなあ。

――――――――キリトリ――――――――

政治のことが本当にわからない。

どのポストが誰にどう変わったら国にどんな影響があるのかとか全くわからない。

党のこととかもわからない。

何もわからない振りして達観した鋭い一言を投げるということもできない。

ただ、情勢論が嫌いという姿勢で斜に構えたまま、何もわからないでいる。

――――――――キリトリ――――――――

自分は、考え方や感じ方、ものの見方がはっきりしていない人間だと思う。

幸せな食事

今日はトマトソースを作ってスパゲティにかけて食べた。

具はキャベツときのことソーセージだった。

スパゲティはきちんと茹でられていないので硬くパサパサしていた。

キャベツは噛んだときにとても青臭かった。

きのこは味がしなかった。

ソーセージは火が通っていないので中が少し冷たかった。肉の味がした。

2011年8月1日月曜日

全能感について思うこと

桜井青の音楽や筋肉少女帯の音楽などの、ひねくれたものがとても好きです。

この時点で興味の無い方は、恐縮ではありますが今日の記事を読むには適しません。



今回は、それらのひねくれた音楽が好きだった私が何故今もさらにその気持ちを加速させているのかを考えました。

その加速度は、私がトーチカというバンドを振り返って考えたときに得られた「全能感」という(最近自分の中で流行っていた)言葉を理解したことで、さらに熱を帯びたのだとわかりました。

まだ産まれたてできちんとした体系も持っていない解釈なのですが、いかんせんブログの更新頻度が落ち気味であるので、備忘録的に一部ここに書き留めておこうと思います。

――――――――キリトリ――――――――

(中略)

強い人間と弱い人間の欠点を集めた人格を有していたことが、このバンドの特徴であります。

それは油断や無謀、はたまた臆病や逃避といったもの。
自分のアタマの強さを誇示する日陰者の被害者は、スピードをあげることに怯えながら、そのスピードで何もかもを振り切っていました。

つまるところ、このバンドは、どうしようもなく矛盾していたのです。

その矛盾とは、激しい劣等感と、その自分の劣等感は何者にも届かない(と信じる)優越感との間に生じるものです。
ここでは、優越感というより全能感と称した方が、より近いニュアンスが伝わるかもしれません。

あらゆる劣等感を激しい怒りの中で悲観的に認識し続けることで、まるで全ての人間の悲しみや汚さを知ったかのような高尚なふりをすること。
 
「おれが一番つらくて悲しいんだ、誰にも理解できないだろう。」


その全能感を得ることへの道筋は、私がトーチカの中に見い出した青春の一つです。
 
このバンドが本当にそんな性格を有していたのかは知りませんし、わかりません。
私は自分の歩いてきた人生と照れし合わせて一緒に考えることで、そのような全能感の得方を知り、また、そういった手法が見える音楽が自分はとても好きだということに気付いたのです。

――――――――キリトリ――――――――
 
今回私が言いたかったことは、
 
>強い人間と弱い人間の欠点を集めた人格を有していたことが、このバンドの特徴であります。

この一行にまとまっている気がします。
 
 
それが全てではないですが、なんというか、そういう感じがします。
自分でもなんでかはまだちゃんと考えていませんが、私はそういう矛盾した、あべこべな感じが、とても人間らしいのに人間離れしてる感じがして、なんだかかっこよく思えるのです。
 
これを読んでる方がそういう私の機微を少しでも「わかったかもしれない」という気分になってもらえればいいなあ、と思って、この記事を書きました。
 
 
眠いですのでこれで終わります。
 
 
――――――――超キリトリ――――――――
 
「ブログ楽しみ」っていう言葉が、私にとっては、愛してるとかあなたが必要ですとかそういう類の言葉の最上級に聞こえます。 

そう言ってくれた方々に、ありがとうございますねー、とここで一言書きたいんや。

おわり

2011年7月15日金曜日

宝物あげるから、それに代わる何かをくれ

という思考について。

これはMOGA THE ¥5のある歌の歌詞なのだけど、とてもいいことを歌っているので、周知したいと思い、こうして時の止まっていたブログに、今更となった、あのMOGA THE ¥5解散ライブのときの記憶時間を挿入しているのであります。

例えば私が試験に向けて勉強するとき、何か仕事で成果物を作るとき。
そのようなときにかける時間と努力は、きっとそれ相応の成果をもたらします。
描くならば非常に綺麗な比例の曲線となるのではないでしょうか。
そして、ここで一番大事なのは、ほとんどの人間がそのことを、理性でも本能でも理解しているということです。


次に思い浮かべるのは、例えばとりとめのない思想に耽るとき、物語を構築するとき、歌を作るとき。


私たちは、それらの行動の為には、時間と努力だけではないたくさんのものを費やすことができます。

それは経験、あるいは記憶、あるいは苦悩、あるいは絶望。
意識せずとも自らの中に確立している何らかの思想を、明文化することで得られる感情。

自らの内から湧き出るそれらカタチの無いものを歌や思想に込めるのです。


そのとき、人は自分の込めた想いに対する執着と、作り出すものの素晴らしさを、簡単に比例の曲線にしてしまうのではないでしょうか。


思い出やトラウマが自分にとって凄惨たるものであるほど、たくさんの人の心を打つ歌が出来上がると。

作品の源泉とした記憶が昔のものであるほど、全ての人間に感ぜられる詩が出来上がると。


そういったことを無意識の内に考えてはいないでしょうか。



「宝物あげるから、それに代わる何かをくれ。」

無意識に、口ずさんではいませんか。

私の宝物は、誰かの宝物でしょうか。